トップページ ≫ 社会 ≫ 陸山会事件と小沢一郎(5)「小沢一郎と田中角栄」
社会
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小沢一郎が政界入りしてからは田中角栄を師と仰ぎ多くの薫陶をうけている。長かった佐藤栄作の時代が終わりに近づき、かわって台頭してきた気鋭の田中角栄が総理大臣を目指して派閥を膨張させるべく活発な運動を展開していたのである。田中角栄は夭逝した長男(田中真紀子の兄にあたる)と同い年である小沢一郎をわが子の生まれ変わりとばかりに可愛いがり、常に傍らに置いていたが、この幸運が小沢一郎の将来を開いたのである。
田中派は活気に溢れ、なかでも一番若い小沢一郎は田中角栄の金庫番であった佐藤あきに見込まれ、その手足代わりとして重宝がられた。佐藤あきのメッセンジャーボーイを仰せつかり永田町を飛び廻る事となったのだ。無口な田舎者の小沢一郎だったが、これがきっかけとなり先輩議員たちとの親交が深められて行く事となった。
「若き血の叫び」初めて田中角栄が立候補した時のスローガンである。雪国なるが故の貧困にあえぐ農民たちを救済したい。自らの抑えきれない情熱を表現したものであった。冬場は東京やその周辺に出稼ぎに行かざるを得ない貧しい人たちに、なんとか一年を通して出来る仕事が欲しい。地元の人々の切なる願いはこれであった。
農民達にとって土木工事は格好の稼ぎ場であった。中学生のころ土方をして家計を助けた田中角栄は、国会議員に当選すると即座に公約を実行した。地元に土木工事の予算が付くように精力的に活動したのである。またたくまに道路工事、トンネル工事、河川改修、圃場整備等たくさんの予算を獲得してしまったのである。中でも只見川のダム建設を急がせるあまり、ダム本体は新潟に造るのだが水利権は福島県に発生するという事もあったが、これも委細かまわずダムの建設工事は地元に大きな雇用を生むとばかりに一図に突っ走った田中角栄の面目躍如であった。地元どころか福島県の方がもっと喜んだと言う笑い話が残っているほど恩恵は多方面にわたったのである。
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