社会
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前篇では5月に行われる川口市長選の現状を取り上げ、盛り上げを欠く要因を新住民の市政への無関心と指摘し、その背景に「川口自民党」があるのではと結んだ。後篇では「川口自民党」の歴史を紐解いてみたい。「川口自民党」を語る上で、キーワードとなるのはやはり「鋳物」だ。
戦後早くから鋳物組合が力をもっていた川口では、鋳物工場の親方(社長)同士の話し合いの中で議員を輩出していった。その頃は市会議員の約7割が鋳物業界の関係者で、それを基盤にした県、国へとつながるピラミッドを構成していた。もちろんこれらの人々は自民党系である。候補者を当選させるため、鋳物工場のみならず下請けを含め家族ぐるみで動員されていたため、投票率も70%以上と高かった。
この仕組みを作ったのが小林英三氏である。東京工業高等(いまの東工大)出身の技術者で発明家としての面を持つ一方、大正14年の川口町会議員当選を皮切りに政治活動をスタートしている。鋳物組合自体は明治38年から存在していたが、戦後の商工協同組合法施行にともない川口鋳物工業協同組合として結成された。その発起人であった小林氏は、昭和22年に行われた初の参議院議員選挙に日本自由党から立候補し当選した。
連続当選3回を果たし、厚生大臣も拝命した小林氏であるが、昭和40年の参議院選挙では自民党から小林氏と土屋義彦氏が立候補し、県と市の自民党で対立した。土屋氏が当選し、小林氏は落選するという川口が破れた結果、巻き返しを図るため町会の組織化を強化することになった。これが「川口自民党」の組織化の始まりである。
さらに8代、10代の川口市長をつとめた大野元美市長(大野元裕参議院議員(民主党)の祖父)が昭和47年の埼玉県知事選で畑和と争って敗れた事が市内の組織化に拍車をかけることになった。この知事選にむけて市内を22の公民館地区に分け、その地区ごとに自民党の市議を輩出する体制を整えた。しかし組織強化を行ったにも関わらず、県政における戦いで勝利を得る事ができなかった。その結果、県政の恩恵をうけることがなく、「川口自民党」として独自路線を歩むという負の連鎖がつづいてきた。
近年、工場跡地のタワーマンション化などにより、川口市への新住民の流入は多く、急速に新住民のウェイトは高くなってきた。夜間人口と流出人口(市外に通勤通学する人口)などから推測すると4割は新住民といってもよい。これにより、鋳物業界中心の旧体質とそれに支えられてきた市政は都市型にかわるタイミングを迎えている。
しかし、町会活動やボランティア活動といった地域自治活動の中心はいまだ旧住民である事が多く、新旧住民の交流や新住民の市政への参加は重要な課題である。この状況が、新住民にとっての川口は寝るために帰るところでしかない、ジャパンパッシング(Japan Passing—海外の政府や投資家が日本を素通りして中国をはじめとする他のアジア諸国に関心が向かうこと)ならぬ川口パッシングをおこしている。
この新旧住民の交流、川口市内へ求心力を高める政策が喫緊の政治課題であり、その意味で市立3高校の統合問題は、課題解決のいい機会である。しかし、市議会での議論をみても、浦和高校を目指すという目標は掲げているようだが、教師、カリキュラムにおいてどのような特徴を持たせるか具体的な話はでていないようである。横浜市は平成21年に横浜サイエンスフロンティア高校を新設し、ノーベル賞受賞学者を含む5名のスーパーバイザーを置くなど各種特徴をもった施策を行う事によって、初年度より高い進学実績をあげている。市立3高校の統合に置いては、ぜひとも具体的な議論を行うとともに、市民が誇りに思える学校創りに挑戦してもらいたい。
川口の憂鬱とは新住民が4割をしめる現在の川口市において、川口自民党を中心とする市政が対応できていないことによる閉塞感がもたらしているのではないだろうか。
(五嶋 直樹)
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