トップページ ≫ 社会 ≫ 原稿の締め切りを死守してくれた池波さん
社会
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死後20年以上たつのに、作家・池波正太郎氏の人気は衰えない。
2月のかんだ藪蕎麦(やぶそば)の火事の報道でも、ここが池波氏のひいきの店だったことを伝えていた。小説自体だけでなく、小説中やエッセイで描かれる食事の話にもファンが多い。池波氏がかよった店の紹介から作中に登場する料理のレシピまで、雑誌の特集や単行本の刊行は数知れない。
私が編集部員だった週刊誌で昭和48年から丸2年間、池波氏の小説が連載され、後半部分を担当したが、食に関するうんちくがこれほどのものとは実感していなかった。担当作品『忍びの女』は女忍者と戦国武将・福島正則をめぐる物語だったので、食事の場面はほとんどなかったのだ。あっても粟粥ぐらいしか記憶にない。その代わりと言うか、池波作品としては異例の濡れ場の数だった。
池波氏は浅草生まれの浅草育ち(生後間もなく関東大震災に遭い、6歳まで浦和にいたこともある)だったことから、西浅草の台東区立中央図書館の中に池波正太郎記念文庫が設けられている。自宅の書斎が復元され、多くの自筆原稿、絵画(玄人はだしの腕前)などが見やすく展示されている。発表作品の詳細な年表もあり、私が担当した昭和49年の欄を見て、あらためて驚嘆した。
月刊小説誌に『鬼平犯科帳』と『剣客商売』を毎号連載、『仕掛人・藤枝梅安』を不定期連載(5号分)、週刊誌には『忍びの女』と並行して『真田太平記』(1月に連載開始)、『雲霧仁左衛門』(4月まで)といった超弩級の仕事量なのだ。67年の生涯で最も多忙な1年だったと言えよう。すべて時代小説なので、時代考証や資料集めもたいへんだったはずだ。
週に1回、原稿をいただきに品川区荏原のお宅に伺った。表札は出ていたが、通りがかった人は当代の人気作家の家だと気付かなかっただろう。間口は狭く、外見はごく普通の造りだった。私の訪問時間には睡眠をとっているか、他誌の原稿に取り組んでいたはずだが、必ず月に1度は時間を取って会ってくれた。「私の読者は本好きではない人も多い。だから原稿の漢字にルビを多くしている。印刷所の人は面倒だろうが、どうか落とさないで欲しい」と頼まれた時は、読者への配慮を痛感した。ご本人が出てこられない日は、茶の間に上がり込み、豊子夫人、お母さん、そして家に居ついた多数の猫たちと共にくつろがせていただいた。
お盆や年末には雑誌の進行が繰り上がり、原稿の締め切りも早まる。そんな際にも池波氏は原稿を約束の日に仕上げてくれた。原稿を夫人から受け取り、ほっとしていたら、ご本人が突然現れ、開口一番、「君のために徹夜しちゃったぞ!」。申し訳なさに縮こまり、恐る恐る顔を上げると、確かに眠そうだが、目は笑っていた。
当時、私は川上宗薫氏の官能小説の連載も担当していたが、この方は口述筆記という独自の手法を開発、やはり原稿の締め切りに遅れることは決してなかった。池波氏は「締め切りを守るというのは出版社にとって金銭的にも非常にありがたいはずだね。宗薫さんと私に感謝する会をやってもいいんじゃない」と言っていた。当方はあくまで冗談と受け止めていたが、命を削るような執筆作業に報いるためにも、真に受けて「感謝の会」をパーッとやっておけばよかったと、今でも後悔している。
(山田 洋)
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