トップページ ≫ 社会 ≫ ジョンソン基地と入間市の古景(前編)
社会
特に埼玉県、さいたま市の政治、経済などはじめ社会全般の出来事を迅速かつ分かりやすく提供。
(序)
安倍政権になって、憲法改正問題が重要なテーマとして浮上していている。 この憲法の改正の是非について、その内容にはふれない。ただこの憲法が1945年、第2次世界大戦が日本の敗北という惨めな結果、占領軍という他国の手によってつくられたという歴史の事実だけは払拭できない。そういう世界史上まれなる出生をみた憲法。
この憲法下の埼玉県豊岡町(現入間市)は、占領軍によるジョンソン基地があたかも異国の街を思わせるようにこの町の文化や教育に強い影響を与えていた。次なる文章は、その当時、少年時代を送った一人の市民の貴重なるエッセイだ。
(前篇)
私が小中学校の頃、街中でジョンソン基地に勤める米軍人と毎日のように出会いましたので、外人を見れば全てアメリカ人だと思っていました。
八百屋にお使いに行った時に出会ったアメリカ人が人参を生でかじったのには驚きました。今では、日本人も野菜を生で食べる様になったのはアメリカ文化が私達の生活に徐々に浸透した結果なのかもしれません。
その頃のアメリカ文化に憧れた昔話をちょっとだけ語ります。
現在の航空自衛隊入間基地は、昭和53年以前はジョンソン基地と呼ばれていました。ジョンソン基地になる前は、日本陸軍の航空士官学校として使われていました。
ジョンソン基地はアメリカ軍の第5空軍が進駐してからそう呼ばれるようになりました。ジョンソンという名称は米軍のパイロットとして活躍したジョラルド・R・ジョンソン大佐の名前にちなんでいるそうです。
先日、狭山市立博物館で「ジョンソン基地とハイドパーク展」という特別展が開催されたので行ってみました。当時の写真や看板などの展示の他、ジョンソン基地に駐在していたアメリカ人が基地内の生活風景を撮影した8ミリカラー映画の上映など、とても懐かしいものでした。
そこで思い出すのは、小学生の頃に行った基地内の生徒との交流会です。クリスマスの時期には基地の中にある小学校に行って「もろびとこぞりて」などの讃美歌を歌ったり、季候の良い時期にはランチをしたりしました。ランチはグループになってするのですが、私達のグループに金髪の女の子がいました。とっても可愛い女の子でした。その女の子は小さなバスケットにサンドイッチを入れて持ってきました。サンドイッチはラップだったかアルミホイルだったかに包まれていたのです。私達日本人は、新聞紙に包んだ弁当箱かおにぎりです。金髪のその子はサンドイッチを縦にして食べたので、サンドイッチはああやって縦にして食べるのかと思ったのを覚えています。私達がサランラップやクレラップ、アルミホイル等を使い始めるのは、これよりもずっと後になるわけで、しかも既にパンの缶詰やインスタントコーヒーもありました。子供心にもアメリカはすごいと思ったのは自然な感覚であったと思います。
また、基地ではカーニバルが開かれました。小学校に入学前に行った記憶があります。どうして、カーニバルに行けたのかは今では判りませんが、そこで初めてコーラを飲みました。当時はコッカコーラと呼んでいました。多くの日本人は薬臭かったと言いますが、私は初めて飲んだとき、この世にこんなに旨い飲み物があるんだと感動しました。また、バニラエッセンスのきいたバタークリームのケーキはものすごく旨く、今でも忘れない味です。そのためか、香りの強いゼリービーンズやキャンディーが好物です。
中学になると、毎週金曜日にはキャデラックやサンダーバードに乗って将校夫人が英語を教えに来ました。数台の車が学校の門を入ると砂麈を巻き上げながら玄関の前に横付けとなりました。
教科書は授業で使っている「JACK&BETTY」を使って行うのですが男子は大抵がふざけていて、まじめに授業を受けていませんでした。
ある時、教科書のページを指して、「ここを読みなさい」と当然ですが英語で言われ、指した将校夫人の指は真っ赤なマニュキアが塗ってありました。その頃はマニュキアなど塗っている母親など皆無の時代でしたので、ある意味カルチャーショックでありました。
中学1年生から本場の英語に浸かっていたのですから、環境は他の学校よりずっと良く、同じ年代では抜群の英語力を持てた筈なのに悔やまれます。 (つづく)
団塊世代 松山竹雄
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