トップページ ≫ 社会 ≫ 打ったじぇ~!! ヒットマン銀次こそ、被災地の星だ
社会
特に埼玉県、さいたま市の政治、経済などはじめ社会全般の出来事を迅速かつ分かりやすく提供。
プロ野球も終盤戦に突入し、混戦模様のパリーグでは連日熱い戦いが繰り広げられている。熱心なファンは一喜一憂の想いで新聞のスポーツ欄に目を通していると思うが、打撃成績に、ちょっと変わった名前の選手がいる事に気づくだろう。7月25日に規定打席に達して、一躍トップに立った銀次選手である。スポーツ選手には珍しい登録名で、まるで時代劇かヤクザ映画の主人公のようである。これが、首位を走るイーグルスの三番バッターで、楽天大躍進のまさしく原動力なのである。突如バットマンレースの上位に躍り出すケースはこれまでも何度かあったのだが、多くが紙面に登場するや間もなく打率が急降下してしまうのがほとんどで銀次選手は、その後も首位打者争いに加わり日に日に存在感を増しているのだ。まさに、今が旬、新しいヒーローとしてメキメキと頭角を現してきた若者なのである。基本的にはセンター方向へ強い打球を飛ばす打法だが、巧みなバットコントロールで広角にも打ち分けられる技術も身につけていて、空振りがすくなく、左なのに左投手を苦にしないアベレージヒッターである。現在は一塁手だが、必ずやゴールデングラブをと公言している。練習は裏切らない事を実感しているからであろう。
この銀次選手がどんな経歴でどんな人物なのかは、熱狂的な楽天ファンか、ごく一部の野球通にしか知られていないのだが、知れば知るほど、その魅力的なキャラクターに引き込まれてしまうのである。ちょっと前までなら西武の炭谷選手が銀仁朗を名乗っていたが今は炭谷に戻しているので、紛らわしいが、まったく別人である。
銀次選手の本名は赤見内銀次(あかみないぎんじ)、1988年2月24日にNНKの「あまちゃん」の舞台である久慈市の南にある普代村で生まれている。祖父が監督をしていた地元の少年野球チームに加わり、東北大会で準優勝するなど、小学生時代から捕手として大活躍だった。母親からは「悪いことはいつでも出来るのだから、野球は今しか出来ないからしっかりやりなさい」と独自の教訓をされ、小さな漁村で野球一直線の少年時代を過ごしている。朝ドラで流行語となった「じぇじぇじぇ」も銀次の故郷では「じゃじゃじゃ」なんだとは本人の弁である。片田舎で育った銀次だが、大志を胸に県都にある盛岡中央高校に進み、一年生からキャッチャーとして存分に力を発揮し、三年生夏の大会では野球ではまったく無名の存在だった母校を24打数18安打、打率7割5分と驚異的に打ちまくり決勝戦にまで引っ張り上げている。あと一歩で甲子園は逃したものの、この試合でも4打数4安打の活躍ぶりで、これがスカウトの目にとまり、2005年のドラフトで楽天から3位指名を受けプロ入りする事となった。当時は宇部銀次として指名されたが、その後、母親が再婚した事により現在の赤見内銀次となったのである。
プロ入り当時は野村監督で、キャッチャーへの要望がハイレベルで銀次の出番は無かったが、打撃力を活かすべく、自ら三塁手・二塁手を志願して猛練習を重ねたのであった。今でも銀次、枡田、阿部三選手の事をドロンコ三兄弟と称されるのは、この猛練習を耐えて一軍に昇格した事への賛辞なのである。
こんな銀次を大きく変えたのが未曾有の大震災であった。大津波に直撃され大きな被害を受けた故郷の惨状は若い銀次のモチベーションを一気に高めたのである。「『銀次は凄い奴だなあ』あいつも頑張っているんだから私も頑張ろう」と思ってくれる人が増えてくれば多少なりとも恩返しが出来る、こんな気持ちで一念発起したのである。故郷への思いをバットに託し自らを鼓舞している野球選手なのである。
夏の初めに楽天対西武戦が盛岡で行われたが、ライオンズ先発の菊池雄星投手よりも、はるかに大きな拍手を浴び、球場全体が銀次、銀次の大声援に包まれていた。そう、普代村出身の銀次の活躍に被災地の復興を心から願う県民意識が、こんな形で表現されていたのであった。私たちも銀次の存在を通して、もう一度、あの日に戻って被災地の復興を真剣に考えなければと思うのである。岩手県の銀次から日本の銀次になった時には、果たして被災地の復興は成されているのだろうか、いま日本の社会が試されている。
(仁 清)
バックナンバー
新着ニュース
- エルメスの跡地はグッチ(2024年11月20日)
- 第31回さいたま太鼓エキスパート2024(2024年11月03日)
- 秋刀魚苦いかしょっぱいか(2024年11月08日)
- 突然の閉店に驚きの声 スイートバジル(2024年11月19日)
- すぐに遂落した玉木さんの質(2024年11月14日)
特別企画PR