トップページ ≫ 社会 ≫ 文化勲章の健さんとファン心理とのズレ
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俳優・高倉健と文化勲章は、どうもしっくりこないと言う人は少なからずいる。歌舞伎界以外の役者の受章者としては、森繁久彌、山田五十鈴、森光子に続く4人目で、各人各様の特性があり、他の受章者に比べて特に遜色はなさそう。
ただ、60代以上のかつての健さんファンには東映仁俠映画でのイメージが強烈だ。1970年前後、映画館は超満員、ラストでのドスを片手に敵陣に殴り込む場面では拍手が起こった。全国で学園闘争が巻き起こっていた時代で、彼が演じるやくざの反権力、反体制の姿勢には若者たちが共感するところがあったのだ。だから、国家が授与する勲章には引っ掛かるところがあるのかもしれない。こういう人たちにとっては、その後の彼の出演映画は付け足しみたいなものだろう。
しかし、当の高倉健は仁俠映画のヒーローを演じることに複雑な思いがあったらしい。1968年夏、雑誌のインタビューで、当時の大ヒット米国映画『卒業』(マイク・ニコルズ監督 ダスティン・ホフマ主演)について聞かれ、「ああいう映画に出たいですよ。私も役者ですから」と答えていた。仁俠映画全盛期だっただけに意外に感じた記憶がある。
2006年発行の『想 俳優生活50年』(集英社刊)は本人のエッセイが入った大判の写真集だが、この中でも「似たような話の台本をもとに、僕は次々に仕事をさせられていた。毎回、ほとんど同じ顔ぶれの、しかも大多数が男だけの100人近いスタッフだった。(中略)日に日にストレスが溜まって、旅館でバカ騒ぎを繰り返した」と回想している。映画人気については、映画館に何度かこっそり見に行った時の印象を「何でこんなに熱狂するんだろうと不思議な気がした。有難いとは思ったが、有頂天にはなれなかった」と記す。全身全霊を込めたような迫真演技とは裏腹の心理だ。1973年に「高倉プロ」を設立し、以降、東映作品そして仁俠映画からも離れていったのも、そうした事情があってのことだろう。
前述の写真集には2006年までの出演作品204本すべてのスチール写真とあらすじが掲載されている。1956年1月公開の『電光空手打ち』がデビュー作で、その年に11本、以後も毎年10本以上に出演、そのほとんどが主演だった。1964~1965年に仁俠映画の人気シリーズ、『日本俠客伝』、『網走番外地』、『昭和残俠伝』が次々に始まるが、それまでに100本ほどに出演していた。刑事・探偵もの、ギャング、コメディー、時代劇、文芸路線と、ジャンルも種々雑多。現在までの出演作が205本だから、その半数はシリーズもの仁俠映画で人気沸騰する以前の作品といえる。でも、主演作での大ヒットはなかった。当時の作品を何本かテレビで見たが、二枚目半的なサラリーマン役など、けっこううまく演じていた。
シリーズ3部作中心に出演していたのは以後10年ほどで、その後は会社から押しつけられたものではなく、自分で納得のいく作品に取り組むことになる。その結果の文化勲章といえるだろう。
ハリウッド・スターに比べて身体能力の面で見劣りする日本の俳優の中にあって、彼の鍛え上げた強靭な肉体と高い運動能力は貴重だった。仁俠路線を続けるのは無理だとしても、何か別の形でもう少し活劇を続けてほしかったと、当時、思ったものだ。その体力が『八甲田山』や『南極物語』のような、極寒の地での長期ロケでものをいったことは確かなのだが、自然相手では活劇にはならなかった。
(山田 洋)
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