社会
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古寺と仏像を訪ねて秋の大和路を巡った。東北、関東、関西から総勢13名の老若男女(若は僅少数)がJR奈良駅に集合。リーダーはさいたま市在住の黒田昌弘さん。定年前に大手電機メーカーを退職、大学に入り直して仏教美術を、さらに大学院で寺院建築史を学んだ人で、その解説を理解するには事前の資料読みこなしが必須だ。
私は2回目の参加だが、この会は今年で13回を数え、奈良は3回目。だから法隆寺や東大寺、薬師寺など修学旅行でおなじみの寺は今回は入っていない。奈良市の南に位置する天理市と桜井市を中心に、奈良、平安、鎌倉、室町各時代の仏教文化をじっくり見て回るということだったが、行く先々で明治維新時の出来事につきまとわれた。
明治新政府は天皇制をもとにした中央集権的な支配体制の確立をめざし、天皇の超越的な権力を理論づけるために神道国教化に取り組んだ。その第1弾が神仏分離令。6世紀に大陸から伝来した仏教は日本固有の神々の信仰と折衷され、神仏習合という形で人々の中に定着した。よくある神宮寺という寺号が示すように、寺と神社が一体化していた。それを廃し、神社から仏教色を一掃し、神道の優位性を打ち出したわけだ。
これが廃仏毀釈と呼ばれる暴挙を誘発し、全国で著名神社の仏教関連の建物、美術品、経巻などが破壊行為にさらされた。この音頭取りは国体神学の信奉者や地方官史で、中央政府の意図を超えて進められてしまった。
聖林寺(しょうりんじ)(桜井市)の十一面観音像といえば、天平時代を代表する名作とされ、フェノロサ、和辻哲郎、白州正子らから絶賛を浴びたが、一時は路傍に捨てられていたという話すらある。もともとは近くの大神(おおみわ)神社(大和国一宮で酒の神として有名)の神宮寺の本尊だったのだが、神仏分離で外に引っ張り出された。誰も引き取ろうとせず、見かねた聖林寺の住職が保護したのだという。
この名作がかつて佇んでいた本堂は今も残り、仏教色を取り払い、神社とされているが、どう見ても寺院建築そのものだ。いっぽう、小さかった聖林寺は、住職の仏像への心遣いのお陰で、多くの拝観者が押し寄せることとなった。
天理市には内山永久寺という巨大な寺院があった。南北朝時代に後醍醐天皇が吉野に向かう時に滞在したことから「萱の御所」とも呼ばれた。ここも神仏分離令で僧侶は近隣の石上(いそのかみ)神宮の神官となり、残された事務方は寺宝を勝手に売却し、最後は池の鯉まで売ったという。
私たちが乗ったマイクロバスのベテラン運転手も、ここだけは場所がわからず、地元の人に何回も道順を尋ねて、やっとたどりつくと、石碑と池が残っているだけだった。この寺にあった多数の国宝、重要文化財の仏像、絵画類は東大寺、東京国立博物館、出光美術館、大阪藤田美術館ほかに散らばり、一部はボストン美術館(流出した日本美術品の宝庫)に渡った。また、石上神宮の国宝拝殿はこの寺の鎮守社から移したものだ。
最盛期は60棟もの建築物を有していた大寺の侘しい現状に、一行は言葉を失った。「これほどの寺を失ったことが、後の天理教の伸張につながったのではないかな」という黒田リーダーの意見には説得力があった。なにしろ、天理市は日本で唯一、教団名を市名にしたのだ。
維新政府による神道中心の宗教政策は民衆に支持されたものではなかったため、間もなく破綻した。仏教伝来以来、神仏習合なる習俗で伝承されてきた宗教や文化を、国家権力によって否定し、国家神道を強制するのは無理があったのだ。中国の文化大革命を嫌う日本人は多いだろうが、規模こそ違え、近代日本でも自らの手による文化破壊があったことは覚えておきたい。
(山田 洋)
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