トップページ ≫ 社会 ≫ 浦高ラグビー部の花園出場をめぐる思い
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本日12月27日から東大阪市の花園ラグビー場で開催される全国高校ラグビーフットボール大会に県立浦和高校が出場する。何度も花園進出をはばまれた宿敵・深谷高校を破り、54年ぶりの出場だ。浦高 OBたちが集まると、この話題で花が咲く。大会を主催する毎日新聞の埼玉版では浦高サッカー部の物語を連載中だ。
前回出場の直後の1960年春に私は同校に入学したが、この時には格別な快挙扱いされていなかったような記憶がある。1950年代に何度も全国制覇したサッカー部の栄光の残照が強過ぎて、割を食ったのかもしれない。それでも同学年にはラグビー部への入部者が多かったから、影響は多少あったのだろう。
当時、最もポピュラーだったのは野球だが、浦高の甲子園出場はまだ実現していない。正確に言うと、旧制浦和中学時代に春の選抜大会に出たことがあるのだが、ほとんど知られていない。記録的大敗を喫し、誇り高き野球部関係者はそれを封印したからだともいう。
進学指導一辺倒と思われがちな浦高だが、ラグビーやサッカーに限らず、男子校として運動部活動や体育教育には一貫して力を入れてきた。毎日新聞の連載記事によれば、「尚文昌武」つまり文武両道の精神を掲げる伝統は今も健在のようだ。でも、私たちの頃は、今とはちょっと違う一面があった。
一部の体育教師が大手を振っていて、体罰も珍しくはなかった。大声で軍隊調の号令を発する教師もいた。勉強オンリーのひ弱な少年になってほしくないという思いがあったのかもしれないが、アナクロ感は否めなかった。体育実技中のけがや重大事故も発生した。
春と秋に全校生徒が参加するマラソンがあるので、その練習も含めて、とにかくよく走らされた。こういうことを知らずに入学した私は面食らった。遠距離通学で、超満員のバスと鉄道を2回乗り継いで1時間、教室にたどり着く頃はヘトヘトで、体育の時間はウンザリだった。
しかし、「尚文昌武」の実践者たちも少なくなかった。同学年生の中には個人競技や注目度の低い種目でのインターハイ出場者がいた。そして競技者として、あるいは指導者として日本のトップクラスに登りつめた人々もいる。
体育嫌いだった私だが、20代後半からスポーツジムに通い、今もランニングは欠かさない。苦しみながら走らされた高校時代の経験が原点だ。54年ぶりのラグビー部の全国大会出場に、半世紀に及ぶ記憶をたどる同窓生も多いことだろう。
(山田 洋)
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