社会
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太平洋戦争中の1944年末にフィリピンのルバング島に派遣され、戦争終了後も30年近く島の山中に潜んでいた小野田寛郎さん(91歳)が、1月16日に都内の病院で亡くなった。同じ日、第150回芥川賞・直木賞の選考会があった。2つのニュースは何の脈絡もなさそうだが、私にとっては40年前の1974年3月の小野田さん帰還とその後の諸々の出来事の記憶と深く関わる。
「最後の武人」とされ、日本中で「小野田ブーム」が巻き起こり、マスコミは小野田報道で沸騰した。本人の手記をどの社が競り落とすか、激烈な争奪戦も始まった。結局、小野田さんが少年時代に愛読した雑誌を発行していた出版社に決まり、週刊誌で集中連載した後に、それを単行本にして刊行することになった。
当時、私はその週刊誌編集部に在籍していたが、社をあげてのこのプロジェクトには加わっていなかった。小野田さんを他社の取材攻勢から守るため、担当チームは他の編集部員に対しても秘密主義を貫いた。ちょうど同時期に、若い取材記者が韓国で学生の民主化運動を取材中に逮捕され、その救援活動に編集部として取り組まなければならなくなり、小野田チーム以外はそっちのほうが喫緊のテーマだった。ちなみに、この時の韓国大統領は今の朴槿恵大統領の父親だ。
小野田さんは静岡県の伊東温泉にある敷地6000坪の、以前は社長別邸だった屋敷に逗留することになり、そこで編集者、取材記者、カメラマン、速記者、ゴーストライター(代筆者)による極秘作業が始まった。代筆を依頼されたのは、小野田さんと同じく予備士官学校に在学した3つ年下の津田信さん。徴兵されて中国に渡ったが、戦後はソ連軍の捕虜になった。帰国後、新聞記者になり、戦争中の体験をもとに長編小説『日本工作人』を書き、1958年上期と下期の直木賞候補作となったのをはじめ、1956年から64年にかけて、芥川賞に2回、直木賞に6回も候補となった。受賞にはいたらなかったが、特に直木賞の歴史において津田さんの名はよく知られている。
当時は新聞社を辞め、小説からも離れ、週刊誌や月刊誌のアンカー(取材原稿をもとにして最終原稿に仕上げる)をしていた。私も何回か原稿依頼し、取材に難があるような時でもうまくまとめてくれ、筆力は評価していたが、文学賞暦については知らなかった。
小野田さんがフィリピンから帰ってきたのは1974年3月12日で、翌月末に発売の週刊誌から連載が始まった。掲載号の売れ行きは跳ね上がり、連載は当初の予定を延長して7月末発売の号まで続いた。その後、原稿は書籍の編集部に移され、9月に『わがルバング島の三十年戦争』が刊行された。当初は秘密裡に進められた小野田プロジェクトだが、次第に情報が漏れ伝わるようになり、内部ですったもんだがあったことを聞いた。
翌年春に小野田さんは牧場経営のためにブラジルに移住した。これで文字通り一巻の終わりとなるはずだった。でもそうはいかなかったのだ。
小野田さんの本の刊行から3年後の1977年6月に、代筆者の津田信さんによる『幻想の英雄―小野田少尉との三ヵ月』が他社から刊行された。『わがルバング島の三十年戦争』では小野田さんサイドの強い要望もあり、「真実を歪めて書き、後ろめたさにさいなまれ続けてきた。その贖罪のためにこの本を出した」というのだ。
この本が出たことを知って私も仰天した。いろいろな経緯があったことはうすうす知っていたが、ゴーストライターが舞台裏を明かすのはタブーとされているからだ。「津田さん、どうしちゃったんだろう」と思いつつも、その本をあえて読む気になれなかった。
その後、津田さんが早世したことを人づてに聞いた。今回、小野田さんの訃報に接し、『幻想の英雄』を思い出し、調べてみると、津田さんのご子息がインターネット上で、この本の全文を公開していた。読むと、同じ編集部で進められていた作業でも窺い知ることができなかった事実の数々が記述され、引き込まれていった。
小野田さんは自分の感情や情緒について語ろうとしなかったので閉口したという。彼の心の襞を探らねばならず、打ちとけてもらうために毎日、一緒に入浴もした。そこでは興味深い話が出てきたが、活字にはしにくい話が多かったそうだ。たとえば、銃で撃った島民は100人ぐらいで、そのうち死んだのは30人ぐらいとか。
彼の話で作為めいたものを感じたのは週刊誌連載開始直後。和歌山県の海南中学卒業後、中国に渡って商社員になったのだが、その際の父親の対応についての記述で、当の父親から「なんであんなデタラメを書くのだ」と声をふるわせての猛抗議を受けたのだ。
ところで、彼がなぜ捜索隊の呼び掛けにも応じなかったのか、本当に戦争が終わったことを知らなかったのか。これが読者の最大関心事と思われたが、彼の説明は矛盾だらけで腑に落ちなかった。捜索隊が置いていった日本の新聞やビラでかなりの情報を得ていたのに、現地に赴いた元上官の解除命令で戦争が終わったことを知ったというのだ。聞けば聞くほど疑惑が増した。
はじめは礼儀正しかった小野田さんだったが、次第に態度も尊大になっていったそうだ。編集者たちが腫れ物にさわるように接し、ご機嫌とりに終始し、欲しがるものは本社に頼んで何でも用意したのが原因らしい。
そして原稿にも注文を付け始めた。彼が話したことをそのまま書いたら、削除、修正を求められることが増えていった。そのために話に不自然なところが出てきた。自分の強がりとか、美化が目立ったという。小野田さんの信頼を得ていた唯一の編集者に善処を求めると、「今は僕の言葉にも耳を貸そうとしないんです」との返事。ついに津田さんもさじを投げてしまった。
小野田さんの出現は多くの日本人に強い衝撃を与え、当時、正面切って小野田批判をしにくい雰囲気があったことは確かだ。しかし、津田さんは断言している。「ひとつだけはっきり言えることは、彼が英雄でも武人でも勇士でもないことである」
(山田 洋)
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