社会
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17日間にわたり熱戦が続いたソチ冬季五輪が閉幕した。4年ごとに祭典を見てきて感じたのは、競技種目が毎回増えていることだ。7競技(スキー、スケート、ボブスレー、リュージュ、バイアスロン、アイスホッケー、カーリング)というのは長野大会以来変わらないが、その中で新種目が急増して98種目になった(前回は86)。素人目ながら、五輪にふさわしいのかと思えるような種目もあった。
私が冬季五輪に初めて関心を持ったのは1956年のコルティナダンペッツォ(イタリア)大会だが、当時は4競技24種目だった。この大会は私だけでなく多くの日本人にとって印象的だった。冬季で初の日本人メダリストが誕生したのだ。後にIOC(国際オリンピック委員会)副会長になった猪谷千春選手がアルペンスキー回転で銀メダルを獲得。テレビ普及前のことで、ラジオのスピーカーに耳を近づけ、欧州からの不安定な音声を聞き取ろうとした。
この時のラジオからは「イガヤ!」ばかりでなく「ザイラー!」という名前がしきりに飛び出した。アルペンの回転、大回転、滑降で金メダル、初の三冠王に輝いたのがオーストリアのトニー・ザイラーだった。まだ20歳で4年後もメダル独占が有望視されたが、五輪出場はこの大会だけで、22歳にして活躍の場を映画の世界に移した。
スクリーンでは難所を高速で滑降する超絶技術はもちろん、スキーの楽しさをふんだんに披露した。日本でも大ヒットした『白銀は招くよ』(1959年)では、12人の娘たちと一緒に、軽快なリズムに合わせてステップするように雪上で躍っていた。この映画では本人が主題歌を歌い、今でもおなじみのスキーソングになった。その後の日本のスキー人気興隆にザイラー映画のはたした役割は大きかったはずだ。『銀嶺の王者』(松竹 1960年)のロケ地になった蔵王には「トニー・ザイラー顕彰碑」まで建てられた。
そんなスーパースターを眼前に見ることになったのは1990年ごろだった。長野県の八ヶ岳近くに人工雪主体のスキー場がオープンし、旅行記者に誘われて、そのお披露目の会に出席した。そこにスキー場設計者としてザイラーが登場したのだ。50代半ばになっていたが、スキー場の全体図の前で熱心に説明する姿は若々しかった。通訳を通して語られる内容は、名前だけの設計者ではないことを証明していた。
翌日、真新しいスキー場で滑ったのだが、初心者の私は急斜面の途中で立ち往生してしまった。そこに鮮やかな滑りを見せるスキーヤーが疾風のように通り抜けた。ザイラーだった。ここはあとに続かねばと勇をふるったが、転倒しそうになった。
2009年にザイラーは病気で亡くなった。元三冠王の滑りを見た後はスキーから遠ざかってしまったが、冬季五輪のたびに彼の名前を思い出す。
(山田 洋)
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