トップページ ≫ 社会 ≫ 政治家への呼称と政治家の劣化現象
社会
特に埼玉県、さいたま市の政治、経済などはじめ社会全般の出来事を迅速かつ分かりやすく提供。
人の呼称はいろいろなメッセージ性が含まれている。昔、佐藤栄作総理は自分の名が栄作であることから“栄ちゃんと呼ばれたい”と冗談まぎれに言って話題をまいたことがある。
裏返せば当時の政治家達は尊敬の的であり、威厳の対称でもあった。
しかし、昨今の政治家はその威厳を失ってしまった。小選挙区制という劣悪な制度から選ばれてくる政治家は、どうしてもおおらかさとスケールに欠け、政策に弱く、冠婚葬祭に追いまくられ、盆踊りや運動会に行ってはペコペコ頭を下げまくる。いわゆる盆運譲員になり下がるのだ。
そんな背景もあって、料理屋の女将達が政治家を呼びつけにして、いかにもその政治家との距離の近さを誇示している場面に何回も出会った。
特に30代、40代、50代の政治家は彼女達にとって格好の標的なのだ。例えば、国会議員の名が、“埼玉太郎”としよう。彼女達は「太郎がこの間来たのよ!」と自慢げに周囲に話し、聞いている周りにいる人達からはひんしゅくをかって「世も末ね!」と言われていた。
さらに、市長の名が“さいたま・じろう”なら「次郎はね、私の言うことなら何でも聞いてくれるのよ」と広言してはばからない女将もいて、客足が著しく減ってしまっているという。プライベートで呼び合うのは自由だ。しかし、場をわきまえない人の名、特に政治家の呼び方には神経を遣うべきだ。そう呼ばれる方の風格にも問題は有ると言ってしまえばそれまでだが、この呼称問題は、かなり意味が深いといって良いだろう。
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