社会
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セウォル号の事故は捜索が予想外に手間取っている。次々と運び込まれる遺体を前にして生還への望みを絶たれた家族たちの怒りはすでに沸騰点に達している。その矛先は頼りない政府へ向けられ現地での激しい抗議活動となっている。世論も次々と明かされる真相に事故は人災だと断定して無責任なフェリー運行を放任していた当局の責任を追及する声となって全国津々浦々に広がり大合唱となってきている。
韓国メディアは「韓国は三流国家だった」とか「沈没したのは船だけではなくて政府への信頼も沈没してしまった」とか「責任を取る人が真っ先に逃げ出す国」とか自虐的である。テレビは遭難者名簿の前で記念写真を撮った政府高官を映し、また、救助された人の傍で平然とラーメンをすする文部大臣の姿をも捉えている。派遣された政府高官たちに使命感や緊張感のない様子が映像で紹介される始末なのだから自尊心の高い新聞社でさえあきれ果てているのだ。
常軌を逸した無責任の積み重ねが大惨事に繋がっているのである。船の管理体制は無し、安全への研修費は年間5万円、バランスを測るプログラムは無し、積載量の三倍もの積荷、コンテナは鎖止めでなくロープで固定、難しい海域で新人航海士へ操舵の交代、避難誘導はなし、動かぬようアナウンスしたまま放置、船長以下運行関係者は全員いち早く脱出、これでもかと言うほどのマイナス要因が重なっているのだから、即人災と断定される訳である。発足したばかりの朴政権だが、まさに正念場である。対応如何によっては政権が崩壊するか否かの岐路に立たされているようだ。
韓国や中国の一部で「同じ海難事故でも日本は犠牲者ゼロ」と報道された。これは2009年11月13日の午前五時頃、マルエーフェリー所属の旅客船が三重県沖で突発的な横波を受けて荷崩れを起こして転覆してしまい、35分後に沈没した事故だが、船長が全ての乗客乗員を最上部のブリッヂに集め、消防用のホースをロープ代わりにして全員を無事救出したもので、船長の的確な指示が犠牲者ゼロに繋がった訳である。この際にも船長・一等航海士6名は最後まで船を守り、浸水が続いたために海に飛び込んでいる。このように船長がしっかりとした避難指示をしていれば、こんな大惨事には至らなかったとの認識を示している訳で、日ごろは日本に厳しい中・韓の報道機関なのだが、今回の事故と対比させて日本のシステムは優れていると紹介したようである。
客室案内係のパク・チヨンさんは生徒ひとりひとりに救命胴衣を渡しながら、すぐに船内から脱出するよう誘導している。一緒に逃げようとの呼びかけに、旅客の避難が確認されていないので「それは私には出来ない」と船室に残り、ついには帰らぬ人となってしまった。この22歳の女性の健気な勇気を賞賛する声が韓国社会に満ち満ちている。あまりにも無責任な船長達と比べ、自らの責任を全うした崇高な行いには誰もが頭の下がる思いであろう。パクさんの葬儀で生徒の父兄代表が「大勢の生徒達を救ってくれた貴女が亡くなられ、生き残った子供たちが罪人になったような気持ちです」と脱出できれば生徒たちからも心からのお礼が言えたのにとの無念な思いを述べていた。
「事ある時にあいてこそ、人の力は現れにけり」の諺があるが、責任を果たした末に亡くなられたパク・チヨンさんの存在は韓国社会の大きな救いとなっている。物質崇拝、科学万能、数字信仰が跋扈する現代社会ではあるが、人間の尊厳こそ精神世界にあるのだと言う事を幽境に旅たっていった若き女性に教えられた思いである。新聞にあった「無能 飽酔す 太平の春」そのものの船長達を非難するのはたやすいのだが、我々もこの事故を対岸の火事と論じるのではなく、前例に倣って有事における心構えを真摯に考えてみるのも太平の世に生きる日本人の務めではないかと思う。犠牲者のご冥福を心よりお祈りしたい。
( 仁 清 )
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