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6月3日付の本欄で、日本相撲協会の前理事長だった先代放駒親方の追悼記事を掲載した。その中では親方の現役力士時代、1975年1月場所で大関昇進を決めた直後に横綱輪島とともにちゃんこ鍋を囲んでいた様子を写真入りで紹介した。その写真には入っていなかったが、同じ席にもう1人の花籠部屋の人気力士がいた。8月29日に急逝した龍虎(享年73歳)だ。
私たちが東京・阿佐ヶ谷の花籠部屋を訪ねた時、龍虎は稽古場にはいなくて、ちゃんこの用意ができた頃に和服の盛装でさっそうと現れ、食べ終えるとどこかに出かけて行った。身長186cm、体重132kgの堂々たる体躯に端正な顔立ちの彼は粋な雰囲気を漂わせていた。当時は独身でいろいろ浮き名を流していたのもうなずけた。しかし、彼が受けている特別待遇は腑に落ちなかった。当時、体調最悪だった横綱輪島ですら、苦しそうに稽古をしていたのだから。
その件については、龍虎の訃報を伝えるテレビ番組の中での、元NHK相撲アナウンサー杉山邦博氏の一言で納得した。「初代若乃花が引退した後、輪島、魁傑が出てくるまでの花籠部屋の屋台骨を支えたのが龍虎だった」というのだ。その相撲歴を調べると、タレントになった男前力士というイメージとは別の面が見えてくる。
1941年東京生まれの彼は輪島、魁傑より7つ年上だ。57年1月場所が初土俵だったが、入幕したのは68年3月場所。11年かけての幕内昇進は当時の最スロー記録だった。新入幕の場所で敢闘賞を獲得し、その後もたびたび殊勲賞、敢闘賞を受賞し、70年に小結に昇進。その間、各場所の優勝力士から勝ち星を得ることが続き、独特の存在感を示した。
70年の9月場所では13勝2敗の自己最高成績を残すが、翌年の11月場所で左アキレス腱を断裂。3場所連続全休で幕下42枚目にまで転落する。そこからが不屈の精神と精進の見せ所、幕下と十両で優勝、1年間で再入幕をはたす。75年1月場所には小結となり、念願の三役復帰。しかし、この年の5月場所で、今度は右アキレス腱を断裂、引退に追い込まれた。
私たちが花籠部屋で龍虎を見たのは引退の3か月ほど前だった。引退後は年寄放駒を襲名するが、77年に廃業し、タレント活動の道を選んだ。年寄放駒を次に継いだのが魁傑、すなわち前理事長というわけだ。
まったくタイプは違うが、ともに土俵をわかせた2人の放駒の相次ぐ逝去、そして隆盛の後、数々のトラブルにより消滅に至った花籠部屋の悲劇を思い合わせると、感慨は深い。
(山田 洋)
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