社会
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9月末に旧友たちと信州を訪ねた。初日のコースに姨捨山(おばすてやま)が入っていた。昔々、貧しくて食料が乏しい村では、70歳になると人減らしのために山に捨てられたという伝説があった。古稀を迎えたばかりの私には何とも皮肉な旅になったが、今の姨捨山はそんな暗い話とは無縁だ。段々になった棚田は手入れが行き届き、稲穂が黄金色に輝いていた。
姨捨伝説といえば、深沢七郎(1914~1987)の『楢山節考』が有名だ。この小説は木下恵介、今村昌平の両監督により映画化され、どちらも大変な話題作となり、海外でも高く評価された。私は最初の(1958年製作)木下作品しか見ていないが、折しも雪が降り始め、人骨が散らばる山中に母親を置き去りにするのをためらう息子に、かまわず山を降りるよう促す母役の田中絹代の演技が忘れられない。
小説のほうは、1956年に発表された時に日本の文学界に強い衝撃を与えた。土俗的、民話的な味わいを持ちつつ、人間の生死について即物的に描いていく手法は、他の作家たちにはないものだった。この後、『笛吹川』、『東京のプリンスたち』などを発表し、作家として独自の世界を開いていった。
しかし、1960年に月刊誌「中央公論」に『風流夢譚』が掲載されると、大騒動になった。夢の中の話とはいえ、皇族が処刑されるなどの描写に、右翼勢力が「皇室を冒瀆した」と強く反発したのだ。ついには中央公論社の社長宅に賊が押し入り、無関係の家政婦が殺害された。身の危険を感じた深沢は逃亡、全国を放浪する。1965年になって埼玉県の菖蒲町(現・久喜市)上大崎に農地を買って定住。ここをラブミー牧場と名付けて農業を始めた。
当時、菖蒲町で塾をやっていたKさんと私のもとに深沢情報をもたらしたのは富山から来た文学通の行商人だった。興味津々、2人で畑の中の仮住まいを訪ねた。用心棒とおぼしき屈強の男性が同居していたが、突然の来客を警戒しているようだった。後に埼玉県の教育行政を担うことになるKさんの巧みな弁説で安心したのか、家に上がらせてくれ、4人で炬燵を囲むことになった。私たちは、全国を放浪した作家が安住の地としてこの町を選んだことを喜ぶ意を伝えようとした。その時の印象は、作家よりむしろ本物のお百姓みたいということだった。
それから10年後、ラブミー牧場を再訪することになった。週刊誌の編集部員でグラビア担当だった私は、カメラマンと一緒に深沢の食事の様子を撮影しに行ったのだ。その数年前に出た痛快きわまる『人間滅亡的人生案内』が若者の共感を呼び、全国からラブミー牧場への来訪者が引きも切らず、彼はさながら滅亡教の教祖のようになっていた。その食卓はいかにというわけだが、予想どおり食事は質素なもので、傍らにあった故郷の名産、甲州ワインが目立ったくらいだ。
もっとも、ご本人はこの趣旨の写真撮影は嫌だったようだ。私に「編集担当者が菖蒲町の人というのでOKしたんだ」と言っていた。
深沢との初対面からほぼ50年、学生だった私も古稀に。現代には『楢山節考』のような恐ろしい習慣は消滅したが、老人の介護施設入りという新たな「楢山まいり」が私たちの前に待っている。
(山田 洋)
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