トップページ ≫ 社会 ≫ 国民栄誉賞歌手とさいたま市中央区の深き縁
社会
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さいたま市は浦和、大宮、与野の3市が合併して政令指定都市になり、後から岩槻が加わった。浦和と大宮に挟まれた与野は、4市の中で面積も人口も最も少なかったが、合併後も存在感は薄い。与野市がほぼそのまま中央区となり、与野という地名が住所から消えてしまい、与野としてのアイデンティティも失われつつあるかのようだ。
さいたま新都心の高層ビル群が町の新しい顔になっているのだろうが、もともとここは国鉄大宮操車場の跡地で、大宮、与野、浦和が入り組んでいて、合併の際に中央区に編入されたのだ。古くから与野の中心は本町通りとされていて、江戸時代から明治初期までは宿場町として大宮、浦和より賑わいを見せていたという。当時の名残の蔵造りの町並みも今や消滅寸前だ。
そんな与野で、何か魅力あるものを掘り起こし、地域コミュニティの再構築をめざす動きが芽生えてきた。その1つが、地元有志たちの手によって先日さいたま市産業文化センター(中央区下落合)で開催された「藤山一郎記念音楽祭 与野(さいたま市)との深き縁」というイベントだ。戦前戦後を通じて数々の大ヒット曲を歌い続けた昭和の代表的歌手、藤山一郎(1911~1993年)が、旧与野市の市民歌を歌ったことから彼と与野の縁が深まり、死後、家族から多数の遺品が市に寄贈され、愛用のピアノは与野図書館(耐震補強工事で来年2月まで閉館)に展示されているのだ。
藤山と与野の接点を作ったのは、伴奏者として長く彼と活動を共にした与野在住の吉村義史さん(現在は和幸楽器会長)だ。昭和38(1963)年7月に市制施行5周年を記念して作られたのが与野市民歌。そして昭和59年の与野市産業文化センターの落成式にも藤山が来て歌ったのだ。東京音楽学校(今の東京芸術大学音楽学部)を首席で卒業し、正統な声楽技術を持つ彼は、音楽教育関連の用事でもよく与野にやってきたそうだ。
NHKの「紅白歌合戦」には第1回から出場し、歌手として指揮者として長く係わったこともあり、遺品はNHKにも寄贈された。1年にわたって、それを整理し、放送博物館の「藤山一郎作曲ルーム」に保存され、一般の人も見られるようになっている。いっぽう、与野に寄贈された分は、ピアノ以外は倉庫に眠ったままだ。
今回の記念音楽祭には新聞各社やテレビ埼玉、そしてさいたま市の後援もあり、平日の昼にもかかわらず大盛況で、定員300人の会場が狭く感じられた。藤山一郎ゆかりの産業文化センターということもあり、司会者の「藤山一郎がここに来ているみたいですね」の一言に同感できた。
プロの歌手を呼んでのコンサートではなかったが、「みんなで歌いましょう」という呼び掛けがあって、『影を慕いて』『長崎の鐘』とプログラムが進むと次第にステージと客席が一体となっての合唱となっていった。藤山一郎と時代を共有した世代の人が大半だったが、彼の歌った曲は単なる懐メロではなく、時代を越えて人の心に響くものが多い。曲の合間に吉村さんが故人の知られざるエピソードを話してくれたのも効果的だった。
最後は『青い山脈』で大いに盛り上がって幕となった。私の隣席の男性は開演後に杖をついてやって来たが、帰り際に「秩父から2時間半かけて来たかいがあったよ」と話しかけてきた。主催者が会場で集めたアンケートによれば、来場者は中央区以外の人が多く、中央区の人を含めても「藤山一郎と与野の縁」を知っている人はほとんどいなかったそうだ。
そして「来年もやってほしい」「遺品の公開を望む」との意見が圧倒的に多かったという。国民栄誉賞を受賞した大歌手の与野に寄せた思いが込められた品々、何とか日の目を見させてやりたいというのが主催者たちの願いだ。
(山田 洋)
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