社会
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大地震がネパールを襲ってから1か月が過ぎたが、5月にも激しい揺れがあり、これから雨季入りするので、山間部では土砂崩れなどの二次災害が懸念されている。この震災が我が事のように感じられるのは4年前の東日本大震災の記憶がまだ生々しく残っていることもあるが、私が微力ながら裏方として関わっている青年海外協力隊でも、数多くの日本の若者がネパールに派遣されているからだ。そして何より個人的にも、この国に強い愛着を持っていた。
まだ日本人の海外渡航が少なかった40年前に初めてネパールを訪ねた。その前に1週間ほどインドを回ったのだが、エネルギッシュで計算高い人々とのやりとりに疲れ果てていた私たち一行は、穏やかなネパールの人々に接して、安らぐ思いだった。
カトマンズは仏教とヒンズー教の寺院が建ち並び、都としての華やぎと落ち着きが調和し、ずっと昔の京都を連想した。静寂を破って鳴り響く寺院の鐘が今も耳に残っている。
私たちはヒマラヤトレッキングの拠点たる山間の町ポカラにも魅了された。湖から眺める高さ7000~8000mのアンナプルナ連峰は神々しくさえあった。小舟で湖に漕ぎ出すのだが、漕ぐのは地元の少年たちだった。子供に漕がせるのは気が引けたが、彼らの小遣い稼ぎに協力するのだと割り切ることにした。「ハトポッポ」を歌うなどサービス精神旺盛だったが、年齢は10歳前後か。連日、朝から私たちに付き合っていたから学校には行っていなかったようだ。当時、ポカラには欧米から来たヒッピーが多数いたが、ここなら長逗留してもよいと思ったものだ。
その20年後の1995年、阪神・淡路大震災の半年後に再訪したが、この間にネパールも変貌していた。静かだった古都カトマンズは車がごった返し、空気も埃っぽかった。古いバザール以外は人家もまばらだったポカラは大リゾート地と化し、湖畔を商店がうめつくしていた。驚いたのは、制服とおぼしきお揃いの服を着た子供たちが整列して歩いてきたことだった。学校帰りの列だ。湖畔には小遣い稼ぎの子供の姿はなかった。自然の美観は損なわれても経済発展の恩恵があったことを実感した。
今回の地震の被害はポカラについてはほとんど伝わってこないが、カトマンズの見覚えのある寺院が崩れ落ちるニュース映像を見るのは辛い。そして40年前のネパール旅行でのある記憶がよみがえった。山の奥深く、高さもかなりの眺望絶佳の地を訪れた時のことだ。あいにく雲におおわれてヒマラヤの壮大な山々が見えない。晴れ上がるのを祈るような気持ちだったが、仲間の一人がネパール人のベテランガイドに「晴れるように祈る時のネパールの言葉を教えて下さい」と尋ねた。するとガイドは「そういう言葉はありません。ネパールでは人間が自然をどうのこうのしようとはしないのです」と答えた。自然に対する畏怖の念を教えられたが、そのようなネパール人を襲った自然の猛威に割り切れない思いは強まる。
(山田 洋)
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