トップページ ≫ 文芸広場 ≫ 県政の深海魚(5)「汚れた手」
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一人の議員が自殺した。
寒い冬の墓地にボロボロになった遺体が枯木の小枝のように散らばっていた。
焼身自殺だった。
法律家を目指していた理想家肌の新人の議員だった。
遺書があった。
「政治とはこんなにも理想と乖離があるとは知らなかった。無念だ」と書かれていた。
春彦は手を合わせた。理想のために激しく戦おうと思った。
―― 己の弱さを超えることだ。矛盾の谷を越えて行くことだ・・・。
シジフォスの神話が浮かんだ。
〝人は重い石を何とか頂上まで押し上げなければならない。しかし、それは不可能だ。だが、不可能だからこそ、強い意志を持って、またその石を押し上げなければならない。それは人間の背負った原罪なのだ〟
花の乏しい冬でも、山茶花はひっそりと咲いていた。散っても散っても、山茶花は咲き続け、陽気な春には人知れず散っていった。
議員の行政視察は積立金と、市からの助成金で行われた。
視察場所の選定はまず、遊べるところがあるかないかから始まる。その後、何処か近所に適当に視察場所があるか否かで決まった。
小田は決まって自分の愛人を連れて行った。
宴会にもその女は参加したが、異議を唱えるものは誰もいなかった。
ある時、春彦が溜まりかねて、その女に帰ってもらった。
夜中の二時頃、女から小田に怒りの電話が掛かった。
「あの若造議員は絶対に許さない」
一週間後、小田の右頬に引っ掻き傷が残っていた。
「全くな、俺の母ちゃんが何処かで女の話を仕入れてきて、いきなり俺の顔を引っ掻きやがってさぁ」
小田にとって政治とは女も金も欠くべからざるものだった。その小田は正義を標榜する革新党の出身だった。
当時、S県の知事は文人知事として有名だった。県の北部でC大学の出身だった。その知事、鹿原は、一方で多くの女性を愛していた。
ある時は、その一人に小遣いを届けるのに、県の職員を使った。そういうことを平気でやっていた。
H市の芸者梅香も鹿原の女だった。二人は一週間に一度、逢引を重ねていた。そして一ヶ月に一度は必ず鹿原がお忍びでH市にやって来た。
「おまえには県北の一等地を分けてやるからな」
言葉通り、その土地は梅香のものとなった。
鹿原の死後、その土地が袋小路で全くの死に地であることを知った梅香は怒りに震えた。毎晩浴びるほどの酒を飲んで泣き続けた。
「政治家なんて最低よ」「男のくずがなるんだわ、あんな商売」
梅香は当然のこととして体調を大きく崩した。肝臓の悪化だった。
ある朝、突然、大量の血を吐いた。
医者が駆けつけた時は既に息絶えていた。
名湯、熱海温泉は、S県の県会議員達の歓楽の場でもあった。
その場に知事の大岡、その次の知事の鹿原もよく同行した。
県会は強者達の土俵でもあった。押しの強い者が勝った。
山奥出身の荒川は、当選一期にもかかわらずその席上で豪語した。
「俺らぁ、一期だけど、議長をやらせてくれ、この通りだ。県会を面白くさせるのが俺の役目だべ」
さすがに議長にはなれなかったが、一期で副議長の席をちゃっかり射止めた。
「仕方ねえ、一期だけは副議長でがまんすんべえ」
熱海のきれいどころが勢ぞろいした。役者張りのマスクに満面の笑みを浮かべながら荒川は舞った。天性の明るさと豪放さで男の魅力を部屋中にまき散らした。荒川の前には、熱海の海も影が薄かった。
芸者達の嬌声の渦の中で、荒川は念じた。
「議長なんてどうでもいい。次は天下の国会議員になって見せるぜ」
県政の情報がかなりの量でH市に入ってきていた。
それはH市が花街であったことと深く関係していた。蜜蜂が花粉を運んでくるように、花街は独特の社交の舞台だった。
マツゼミのかすかな鳴き声が聞こえてくるとH市は初夏だ。マツゼミは太陽を背にして生きるので、松の葉の裏に隠れてその姿を見たものは殆どいなかった。正体のつかめない蝉だ。
突然、二人の刑事が春彦の事務所にやってきた。
一人は県警、一人はH市警察の刑事と名乗った。初夏だというのに二人とも薄汚れたコートを着ていた。
「信濃議員さん、突然すいません。実は安倍のことなんですが」
安倍とは革新党の鋭い論客として、市役所中に煙たがられていた市議会議員だった。
「何か?」
「いやいや、安倍はどんな人物ですか?」
鋭い眼光が春彦の全身に注がれていた。
「さあ、どんな人物って言われても、そうだな・・・正義感が異常に強くて、妥協をしない革新党の闘士っていうところかな・・・」
「正義感が強い?成る程な。ふうん。それで、安倍の質問は細かくて、鋭いらしいんだけど、何か、裏があるんじゃないかと不思議に感じたことはなかったですかね?」
県警の刑事は深い含みのあるような質問をした。時々、謎めいた陰気くさい笑みをした。
「わかりました、わかりました」
勝手に理解したように、二人の刑事は去った。
五日後。
『革新党のエース、H市市議会議員・安倍則夫収賄容疑で逮捕!』
地方版のトップに新聞各紙が報じた。わずか、五万円の賄賂をもらった容疑だった。それも墓地の造成に絡んでのことだった。
安倍は、開発や造成について、いつも鋭い質問をして執行部を困らせていたことは事実だった。その姿はあたかも、正義と清潔の代弁者のように人々の目に映った。
保守政治の腐敗と革新政党の醜悪さ。
春彦は地方政治に魔界のようなものを見てしまった。
一方、中央政界では、仲間金脈のことで揺れていた。
金権政治の最たるものとして仲間首相は厳しい批判を浴び、外国の旅客機に絡んで、賄賂の容疑で逮捕されるという大事件が起きた。
―― 中央も地方も、政治は腐敗の坩堝だ。所詮、政治という業はどこまで行っても不毛地帯ということか・・・。
萎えていく心を精一杯支えたものは、政治への情念のようなものだった。
激しい恋の炎のようなものが春彦の胸中にあった。
〝前へ!〟 〝この河を渡れば清涼たるオアシスがある〟
何の映画だったか、そんなセリフを思い出した。
(つづく)
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