トップページ ≫ 文芸広場 ≫ 県政の深海魚(10)「県議会のボス・前編」
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S県の県議会は明治十三年に開設された。
県議会議員は権力の象徴と言ってもいい程、特異な存在として地方に君臨していた。
県議会議員の家はそれこそ、邸宅と呼ぶにふさわしかった。馬車に乗って議会へ通うのも権力の証だった。長い髭を伸ばし、威厳を保った。
昭和に入って、戦後の県政は数人の知事によって運営される。いわゆる保守県政が敷かれたが、鹿原知事の時代で保守県政は一応のピリオドを打った。
鹿原は能吏の典型だった。鹿原は県庁の一般職員とは会話すら交わしたことがない。数人の能吏が鹿原をガードする。上意下達で全てが決まっていった。
いつの間にか鹿原は忘我の状態で周りが見えなくなっていった。全てが思うままにいくから、当然、権力の魔力にとりつかれる。
引退の時を誤った。
複数の保守有力者同士が知事選を争った。
しかし、初めは問題にされなかった革新知事が当選した。
鏡知事。初めての革新知事の誕生にS県の保守政界は右往左往した。鏡は革新といっても、大地主の息子でむしろ本来の保守政治家だ。バランス感覚が特に優れていた。
「俺達よりも保守的だな、鏡は」 県議会議員達も舌を巻いた。いつもにこやかに人に接した。春風駘蕩という四文字がよく似合った。最終決断は勿論、鏡知事が下した。
しかし、多くの有能な職員を抜擢してそれぞれ信用し、任せた。
職員は知事を尊敬した。知事と同じ方向を一心同体になって目指した。
一方議会は、圧倒的多数の保守政党が牛耳った。
「例え議会が反対してきても県民こそが味方だ」
県民党という言葉が生まれた。保守的な県民も鏡には特別の感情を抱いた。
『県民党』妙な共感が輪となって、鏡は選挙に抜群の強さを発揮した。
保守党の欲求不満は限りなく深かった。
『知事と議会』保守党の不満はそのまま権謀術数の魔界のような県政の土壌を創り上げていく。
県政の担い手は知事をトップとした執行部と、議長をリーダーとした県議会だ。
しかし、議長が必ずしもトップリーダーではない。真のボスは議長の背後にいる。
ボスにうまく取り入ることが県議会の出世のポイントだ。
そんな議会の殿堂が、県議会議事堂だ。
S県の議事堂は一流ホテルのような煌びやかさと偉容を誇っていた。あたかも県都のS市を睥睨し、執行部の県庁を威嚇するかの様に・・・。
「まるで幻の狸御殿みたい」
最上礼子は呟いた。
「でも亡くなった吉野さんの言葉を借りれば巨大な水族館かしら・・・。ええ、そうだわ。黒い深海魚が潜み、光沢の無い眼光を発しながら獲物をじっと狙っているんだわ・・・」
最上礼子は取材用のノートを握りしめていた。
「おい!信濃。S市の市長選、太田と矢田ではどっちが金があるんだ」
太田は県民クラブを辞めてS市の市長選に挑もうとしている。
一方の矢田はS市の助役だ。
「どういうことですか、それは?」
信濃春彦は怪訝な顔付きで答えた。
「当たり前だろう!保守党は金のある方に推薦状を出すんだよ」
怒鳴り続けているのは県議九期目の岩木だ。
三代の知事とやり合ってきた。
押す。引く。―― 政治の技術を巧みに駆使しながら県政界を泳ぎ、潜み、生き延びてきた老練の権化だ。
〝シーラカンス〟 と春彦達は陰口を叩いていた。巨漢で古くて。まるで古代魚のような風貌を揺するようにして周囲を威圧し続けてきた。
「また、シーラカンスが吼えてるわ。そう、そういえばシーラカンスも深海魚だったわ」
最上礼子は保守党議員団の光景を眺めながらそう呟いた。
十日後、保守党県連は助役の矢田に推薦状を出した。
春彦達、三人の県議はこの不可解な決定に激しく抗議をしたが、何の回答もなく無視された。
「俺達を舐めてやがるな、信濃先生」
一本木の井出は悔しがった。
「いいじゃねえか。俺達三人は除名覚悟でS市へ乗り込もうぜ。友人の太田先生を見殺しにすることなんかできるかい!」
O市の議長まで務めて県議になった小池は机を叩いて激昂した。
三人はS市に乗り込んだ。
「我々は除名を覚悟で同志の太田先生を応援に来ました。クリーンで、政策に強い太田先生を清潔な市民の手で、市民の力で、是非、市長になってもらいましょう!」
三人は次々にマイクを握った。
S市の市民は思わぬ応援団に歓喜した。
大差で太田が市長に当選した。
保守党県議団は荒れに荒れた。
岩木が吠えまくった。顔面は紅潮して、火のようになった。
「お前達三人は保守党から出て行け!除名だ」
「そうだ!党の決定に背いた奴等は除名だ」
他の県議達も口々に叫んだ。
県議会議事堂の会議室は怒声の飛び交う戦場と化した。
「どうぞ、除名になさって下さい。一つの市の市長を決めるのに、金があるのか、ないのかの物差しで決める政党なんて何なんですか。こんな政党に所属していること事態恥ずかしい限りです。どうぞご随意になさって下さい」
春彦は理不尽なやり方に対する怒りを、努めて冷静さで装いながら凛然として言った。
そして周囲を睨んだ。
その透き通るような迫力に周囲はうな垂れるように静まり返った。
「私達は何も恥じることはありません。除名は名誉と心得て、甘んじてお受け致します」
春彦はやおら立ち上がった。
「人口わずか十五万のS市の市長選で三万票以上も差をつけられて保守党候補は敗れました。しかも保守党支持者の多いS市です。この大差は、保守党がこの選挙の状勢を把握も調査もせず、やれ、金はどっちが持っているんだ、金のある候補者でなくては駄目だ、等、全く本末転倒も甚だしい。時代錯誤の決定の結果だと私は信念をもって申し上げたい。大事な知事選も迫っております。執行部は猛反省をして頂きたい。その上で、どうぞ私達の処分を決定して頂きたいと思います。以上です!」
春彦の全身は気迫で溢れていた。
凛然として威儀を正す春彦。
会議室は水を打ったように静まり返った。
「さあぁて、本日の会議はこの辺りで散会としようか」
この異様な静寂を元に戻さなければ春彦達のペースに呑み込まれてしまうと保守党県議団団長の牧田修は咄嗟の判断をした。
「ちょいと休憩にしましょうや」
隣から幹事長の千曲が遠慮がちに言った。
「いやいや、本日はこれにて解散!」
牧田は千曲をあえてさえぎり、強い語調で宣告した。
牧田は既に議長も経験。六期連続当選の猛者だった。
なで肩で、痩身。サイドベンツのスーツを上手に着こなすダンディーな男だ。
頭も切れた。旧制の名門中学を出て、建設業をしていた。金縁の眼鏡も良く似合っていた。
部下の数では牧田に勝る者はいない。人心掌握も巧みで、金を惜しみなく使った。
県庁界隈の花柳界でも牧田は実に良くもてた。女の噂も二、三にとどまるところではない。
本人もあからさまに自慢をしていた。
「県会に出てきて、彼女の二人や三人できなけりゃ、一流にはなれないよ」
牧田の口癖だった。
その牧田が千曲をそっと招いた。
「早急に話し合いたい。例の場所でな」
牧田を日頃尊敬していた千曲は二つ返事で料理屋の予約を取った。
小ぎれいな料理屋に二人はいた。
「新小菊」牧田や千曲、時には他の三、四人を入れて密談をする場だ。
まず、牧田が口火を切った。
「今日の件なあ、信濃君の言うことが正論だな。参ったよなぁ。あの筋論でやられちゃあ、党紀委員会なんかにとてもかけられるもんじゃねえぞ。彼等は有能だ。彼等を追いやったら、虎を野に放つと同じようなもんだ。知事選も近い。この際、どうだい、一切不問に伏そうじゃないか」
牧田は政治家としての早い決断をしていた。(大ボスの岩木を口説くのは易しいもんだ。むしろ、信濃を煽てて、こっちから詫びる振りをするのが得策だ。そして、何とか信濃を自分の部下として、ある種、懐刀にしておけば鋭い武器になる・・・)
鋭敏な千曲は、とっくに牧田の腹を読んでいた。
「牧田先生、分かってますよ。どっちが得か、そんなところで収めましょうよ」
千曲は妥協ということを好んでいた。損得の計算にも人一倍長けている。
あっという間に二人の話は終わった。
遠くで春雷が鳴っていた。
牧田は自分の今後を想っていた。五十歳をわずかに過ぎたばかりの牧田は野心の塊だった。そしてニヒルな面も備えた情炎のような男だった。
(俺は政治家にむいている。そして権力の階段を上がれば上がるほど財力もまた、追っかけるようについてくる。それにしても大事なのは人だな・・・)
春彦の舌峰が、遠雷のように牧田の脳裡の中で響き、輝いては消えていく。
「今夜の春雷は吉報だな」
牧田と千曲。「新小菊」の障子に影絵のように映し出された。
この二人は心中密かに知事選を練っている。全く異なる二人の思惑はその夜の障子には決して映し出されることはなかった。
(つづく)
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