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埼玉のサツマイモのひみつ
2016年10月21日
タグ: いも供養, さいたま市紅赤研究会, サツマイモ, サツマイモの日, 三富新田, 三芳町川越いも振興会, 妙善寺, 富の川越いも, 山田いち, 川越いも友の会, 川越さつまいも地蔵尊, 川越イモ, 紅赤, 金時
10月13日は「サツマイモの日」。昭和62(1987)年に「川越いも友の会」が、全国に向けて宣言したのがはじまり。この日は、全国各地でサツマイモに関連したイベントがあったに違いない。川越の妙善寺でも、22回目の「いも供養」が行われた。妙善寺には、サツマイモを両手で胸に抱えた「川越さつまもいも地蔵尊」が安置されている。イモ祈願奉納と妙善寺住職の読経によるいも供養が行われた。
川越とサツマイモはとても縁が深い。
サツマイモは、江戸時代初期に中国から沖縄に伝わり、九州各地に広まった。江戸時代中期、西日本で大飢饉があり、その時多くの人々の命を救ったのが、サツマイモだった。それが世間に知れ渡り、救荒作物として知られ、ときの将軍、徳川吉宗が注目した。関東でも普及させようと、サツマイモ栽培の奨励をしたのが、川越に伝わるきっかけだ。江戸時代後期になり、関東でもサツマイモ作りが軌道に乗ると、江戸に焼イモ屋が現れ、大人気となった。当時のキャッチコピー「九里四里(栗より)うまい十三里」が流行り、「十三里といえばサツマイモ」が定着した。関東各地でサツマイモは栽培されていたが、川越から入ってくるサツマイモは特においしいと評判になり、川越と江戸の距離が十三里あったことからも「十三里」と呼ばれるようになったとも言われている。
川越いも友の会が制定したサツマイモの日は、サツマイモの旬である10月とサツマイモを表す十三里の13からきている。
川越のサツマイモは、上総国志井津村(千葉県市原市椎津)から種イモを取り寄せ、武蔵野台地の南永井村(所沢市)で栽培されたのがはじまり。川越藩と隣接する村々(川越市、所沢市、狭山市、新座市、三芳町)の大きな地区で栽培された。
江戸時代中期、三芳町と所沢市は、三富新田と呼ばれた地域で、三芳町の上富地区、所沢市の中富地区と下富地区に分かれていた。この三富新田では、平地林の落ち葉を堆肥にして、関東ローム層のやせた土地を豊かにし、そこで栽培したサツマイモを売った収益で平地林を管理する「循環型農法」が確立されていった。落ち葉堆肥で作られたこの地区のサツマイモは、質がよく、最高級品とされた。
サツマイモは重くてかさ張るため、陸路の運搬に向いていなかったが、川越を流れる新河岸川が江戸を結ぶ水運となっていたので、安く大量に江戸に運ぶことができた。流通量が多かったため、サツマイモの代表産地として知られるようになり、「おいしい川越地方のサツマイモ=川越イモ」と全国にその名が広がった。
時は流れ、明治31(1898)年、木崎村針ヶ谷(さいたま市浦和区北浦和)に住む山田いちが、自分の畑で在来品種が突然変異したサツマイモを発見。「紅赤」と名付けられ、色鮮やかな紅色で、上品な甘さから人気を博し、「サツマイモの女王」と呼ばれるようになった。サツマイモの一大産地だった川越地方も、紅赤の栽培に乗り出し、大正時代に入る頃には「川越イモといえば紅赤」と言われるほどになる。
「紅赤」は「金時」とも呼ばれて広い地域で栽培されたが、品質が安定しないなど栽培が難しく、昭和59(1984)年に開発された「紅アズマ」などの育てやすい新しい品種に取って代わられ、「幻のサツマイモ」となってしまった。しかし、100年以上続き、生き残っている根強い品種だ。
埼玉が誇る川越イモ、紅赤を復活させようと、さまざまな動きがある。
さいたま市では、生産者でつくる団体「さいたま市紅赤研究会」を中心に品質の安定を目指して栽培。また、紅赤発祥の地として、菓子店やパン屋が期間限定で紅赤を使ったお店オリジナルの菓子やパンを製造販売している。
上富地区の三芳町では、「三芳町川越いも振興会」を立ち上げ、江戸時代、「いも味良し…『富(とめ)のいも』」と紀行文でうたわれたこともあり、「富の川越いも」とブランド化して、紅赤の保護や品質向上などに取り組んでいる。
埼玉のサツマイモの生産量は鹿児島や千葉には遠く及ばないが、「川越イモ」と全国に名と品質のよさを知らしめた、歴史や文化がある。新しく出るさまざまな品種にはない、甘さとホクホクとした食味に魅了され、守り続ける人たちがいる。幻のサツマイモとして、静かに長く愛され続ける存在であってほしい。
岡 アヤコ
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