社会
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政治には無関心に見えた人が、お酒が入ったりすると突然、政治的発言を始める場面によく出くわす。以前ならそれは時の政権に対する批判的な意見が多かったが、今は政権擁護とか愛国的な内容に傾きつつある。ヘイトスピーチまがいのタイトルが並んだ右派系雑誌の広告が堂々と新聞に掲載されていることからも、世論がそちらにシフトしていることが感じられる。
7月に刊行された『「右翼」の戦後史』(安田浩一・著 講談社現代新書)は日本の右派勢力の歴史を調べ、「天皇親政」「一殺多生」を謳った戦前右翼から今の草の根的右翼に至るまで、さまざまな変転と離合集散を興味深く描いている。1964年生まれの元・雑誌記者の著者は6年前に『ネットと愛国』(講談社刊)にて、ネット右翼やそこから生まれた在特会(在日特権を許さない市民の会)に丹念な取材で取り組み、注目を集めた。その後も社会問題に斬り込み、講談社ノンフィクション賞や大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。
第2次大戦の敗北と米国による占領政策は、それまでの右翼の思想基盤を失わせ、壊滅状態に追いやったが、米ソの冷戦により占領政策が変化、右翼活動家がよみがえる。そして多くの右翼は「鬼畜米英」から「親米」に路線転換した。敗戦時に集団自決した団体もあったが、転向に逡巡や苦痛を示す者は稀だった。
戦後右翼の軌跡を見る上で、著者はこの点を重視する。民族主義、国粋主義の旗を振りながらも日米安保を肯定し、沖縄の米軍基地化に手を貸すのが、今や右翼の大部分と言えるからだ。右翼としては「反共」を新しい門出のエネルギーとしたのだ。そのためには「鬼畜」だった米国にも擦り寄った。
保守政権としても戦後の労働組合運動の盛り上がりを見て、左翼勢力と物理的に対抗できる右翼を欲し、全国の博徒、テキヤ、愚連隊を反共の旗の下で結集しようとした。それは1960年の安保闘争の高まりで、警察だけでは抑えきれないとの判断もあって具体化寸前まで行った。こうして政界と暴力団、そして右翼団体のつながりができた。
1960年代後半に学園紛争が頻発すると、全共闘運動に対抗して右派の学生組織も結成された。全国学生自治体連絡協議会(全国学協)は宗教団体「生長の家」の学生連合が中核となり、初代委員長に鈴木邦男が選ばれるが、他の右派学生団体に融和的であるなどということで1か月で解任された。以後、彼は運動から離れるが、1970年11月の三島由紀夫の自決に触発され、運動再開、「一水会」を結成する。機関紙では右翼用語を極力抑え、左翼論客にも執筆させるという独自路線を歩む。右派学生運動の中では、政府の対米追従に反対し、従来の右翼を否定する動きがいくつか出てきていたが、やがてそれぞれの方向に分散してしまう。
生長の家の信者が中心だった全国学協は、その後、神社界や一部仏教寺院など宗教団体と大同団結して大衆運動に取り組んでいく。これが後に巨大組織となる「日本会議」の源流の1つだ。愛国心と改憲の旗を掲げて「日本を守れ」と叫びながら、戦後という時間を否定する動きはここから始まり、ネット右翼につながっていく。
『ネットと愛国』では、世の中に不安と不満を抱える若者が在特会という仲間と出会い、在日コリアンや中国人を罵倒することに喜びを感じる姿を辛抱強く取材していた著者も、近刊では愛想を尽かしたように突き放している。実際、在特会は一時の勢力を失ったが、ネットには差別と偏見に満ちた言葉があふれている。
著者は「右翼の主体は街宣車の右翼でもなければ在特会でもない。極右な気分に乗せられた一般人なのだ」と指摘している。
山田洋
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