トップページ ≫ 社会 ≫ 40回の転職からラーメン一直線 —ラーメン店チェーン「ハイデイ日高」—
社会
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4月に埼玉新聞社から刊行された『ジャリ道 それでも立ち上がった経営者たち』(本体1400円+税)は県内有力企業の経営者8人へのインタビュー記事をもとに構成されている。山あり谷ありの事業展開の中で常に信念と希望を抱いて生きてきた姿は、単なるサクセスストーリーではないドラマに満ちている。
この中で業種が最も身近に感じられるのはラーメン店チェーン「ハイデイ日高」で、創業者の神田正氏(1941年生まれ)の経歴もユニークだ。父は傷痍軍人で定職に就くことができず、母がゴルフ場のキャディをして4人の子供を養った。日高町(現・日高市)で一番の貧乏家族で神田少年も小学6年の時から年をごまかしてゴルフ場のアルバイト。中学を卒業すると板橋の旋盤工場に住み込みで就職するが、貧しいながらも楽しい我が家を忘れられず、15日で逃げ帰った。
その後、いろいろな仕事をしたが、どれも長続きしなかった。その数は40にもなるという。22歳の頃、ラーメンの出前専門店で働いたのがきっかけで何軒か渡り歩き、知人の誘いで岩槻のラーメン店を手伝う。しかし、1年後に閉店することになり、どうしようか迷っていたら、店の家主から、営業を引き継がないかと言われた。
金がないからと断ると、家主が保証人になって銀行から100万円借りられた。それ以来、彼は人が変わったように仕事に打ち込む。店が軌道に乗ると、スナック経営にも手を出して大失敗、ラーメン店もろとも倒産した。
再び流れ者になった彼が32歳の1973年、たまたま大宮に行ったら、駅東口の北銀座で破格の低家賃2万円という貸店舗の張り紙を見た。たった5坪で5~6人座ったら満員という狭さだが、ここで再スタートした。出前が8割で、得意先は近くに密集するソープランド店。当時、夜遅くまで営業している飲食店はほとんどなかった。寝る間も惜しんだ深夜営業で客が増え始めた。
北銀座に続いて大宮一の繁華街、南銀座に出店すると、出前の注文が殺到した。折しも高度成長期の1970年代、神田氏は確かな手ごたえを感じ、蕨、西川口、大宮西口と次々に出店していく。いずれも駅に近い所を選んだ。出店と自社工場建設で借金も1億円に膨れ、「失敗したら自殺」の覚悟さえした。
幸い、弟と義弟(妹の夫)が協力してくれ、事業は拡大を続けた。この頃の難問は人材確保。求人広告を出しても反応なし。養護施設を回って若者を紹介してもらった。「やる気さえあれば、生い立ちも学歴も国籍も年齢も関係なく採用する」という方針は以後も一貫している。
その頃、大宮に住んでいた私は、仕事で帰りが遅くなると南銀座店にしばしば立ち寄った。店は決してきれいではなかったが、深夜営業と低価格路線はうれしかった。店内に貼ってあった求人案内を今でも記憶している。「たった5坪の店で始めた商売ながら、事業を大きくしていきたい。その夢を共有する仲間を探している」という内容で、ここの経営者の意気が読み取れた。
その夢は叶い、今は東証第1部上場をはたし、外食産業の躍進企業として評価は高い。
山田 洋
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