社会
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316年前の元禄15年12月15日未明、赤穂の浪士たちが亡き主君の仇たる吉良上野介の家敷に討ち入った。事件は当時から大評判になり、これを題材にした数々の芝居が上演された。寛延元年(1748)にはその決定版ともいえる浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」が初演され、浪士たちを「忠臣の手本」としたことから「忠臣蔵」という呼び方が一般化した。6年前に亡くなった作家の丸谷才一は、日本人に最も親しまれている文学は「万葉集」でも「源氏物語」でも「平家物語」でも芭蕉でもなく、忠臣蔵伝説とそこから派生した諸作品だと指摘していた。
討ち入りの前年3月に、朝廷からの使者を迎えていた江戸城中で、接待役の赤穂藩主・浅野内匠頭が、幕府の儀礼を司る役職の吉良上野介に切りつけ、背中と額に傷を負わせた。そのため、内匠頭は切腹、赤穂藩も取り潰しになり、家臣たちは浪々の身となったが、上野介のほうはお咎めなしだった。これに異を唱えるべく、城代家老だった大石内蔵助を中心に47人の浪士たちが吉良邸を襲い、上野介の首を取ったのだ。
芝居や映画、テレビドラマになったこの話は、内匠頭が悲劇の主君、内蔵助が深慮遠謀のヒーローであるのに対し、上野介は意地悪で陰険な吝嗇家と、徹底した憎まれ役になってきた。それぞれの個性を際立たせて話の展開を盛り上げる創作が加わったのだ。話の真偽性についての疑問は江戸時代からあったが、忠義を賞讃する声にかき消された。明治以降は忠君愛国の思想とつながり、事の真相は追求されにくくなった。
上野介の所領だった三州吉良(現・西尾市)出身の尾崎士郎(1898~1964)は大河小説「人生劇場」の冒頭で、この地では「忠臣蔵」は禁制で、人々は旅先でも自分の地名を明かすのを憚ったとしている。小説の時代設定は大正時代だが、1960年代にこの小説を読んだ私も「さもありなん」と苦笑したものだ。
しかし、1980年代に入って、それまでの「忠臣蔵」観と対立する意見が次々に出てきて、史実の研究も進み、事件の主役たちへの評価が変わり始めた。上野介は地元では新田開拓、築堤、塩田事業において以前から評価されていて、ようやくそれが注目されたのだ。西尾市には馬に乗って領地を回る上野介の像や、彼を讃える碑文がある。吉良家は室町時代以来の名家で、上野介は朝廷関係の幕府の儀礼を管掌し、広い教養をそなえていた。このような実力が、内匠頭に対しての傲慢ともとれる対応につながったのかもしれない。
逆に内匠頭には、家臣たちを路頭に迷わすことになる軽挙妄動に批判が強まった。彼は清廉な若大名というイメージを持たれていたが、短気でカンシャク持ちだったという。上野介に突然切りかかった理由も不明な点が多い。
討ち入りに参加した47人の中には、殿との接触もない、年俸の低い人たちが多かった。逆に4人の家老をはじめ重臣たちの中で参加したのは内蔵助だけだった。だから、この事件を単純に忠義の物語とするのは無理があるようだ。
山田 洋
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