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新聞に昨年逝った映画関係者のリストが載っていたが、その中に仕事で縁のあった人の名があり、驚いた。11月30日に肺炎で亡くなった映画プロデューサーの黒澤満氏(享年85歳)だ。葬儀には多くの映画関係者が参列したそうだから、テレビなどでも報道されたはずだ。
彼は早稲田大学を卒業した1955年に映画会社の日活に入社し、1973年には撮影所長に就任。1971年から日活はロマンポルノ路線に転換していて、その企画・制作の中心人物となった。ここでは監督たちの作家性を重視し、好きなように撮らせたため、若い監督を育てる場所になった。役者の中にも後にロマンポルノ以外で活躍する人が続出した。ロマンポルノは1988年まで続いたが、黒澤氏は1977年に日活を退社し、東映の岡田茂社長の誘いで東映セントラルフィルムのプロデューサーになった。翌年に手掛けた『最も危険な遊戯』では日活ロマンポルノ出身の村川透監督、主演に新進スターの松田優作を起用して大成功をおさめた。
1985年には講談社「ヤングマガジン」に連載されていた人気漫画(作・きうちかずひろ)を実写化した『ビー・バップ・ハイスクール』をプロデュース。那須博之監督もロマンポルノ出身で、主役にはズブの素人の大学生、仲村トオルと歌手活動をしていた清水宏次朗を抜擢した。この映画のメイキングストーリー等を収録した本の編集を担当した私は、本が大増刷に次ぐ大増刷となったことで、映画そのものの大ヒットを実感した。
喧嘩に明け暮れる不良高校生たちを描いた『ビー・バップ・ハイスクール』は6作まで続き、映画本のほうもそれを追った。最初に本の発行についての打ち合わせで、東映セントラルフィルムが母体のセントラル・アーツの社長になっていた黒澤氏を訪ねた。その時に同行した東映の宣伝部員は、古巣の日活のスタッフたちを重用する黒澤氏に感心しつつ「うちの幹部が同じ立場になったらどうだろうか」とつぶやいていた。
『ビー・バップ』シリーズが終わった頃、主役の仲村トオルを起用した別の本の企画を、私は上司と一緒に黒澤氏に持ち込んだ。まだ時期が早いということで企画は実現しなかったが、ていねいな対応を記憶している。『ビー・バップ』映画については、日活の鈴木清順監督作品『けんかえれじい』(1966年)を強く意識して作ったと言っていた。鈴木監督は「わかりにくい映画を作る」ということで日活社長に嫌われ、解雇されたが、社内に熱い支持者がいたことを知り、清順映画ファンの私はうれしかった。
葬儀で泣きながら弔辞を読んだ仲村トオルはこうも語っていた。「撮影現場で働く人たちが、自分や家族のためだけでなく黒澤さんのために頑張っているように見えました。黒澤さんは自分以外の誰かのために、企画を考え、現場を整え、作品を作っていました」。故人の人柄がうかがえる素晴らしい証言だ。
山田 洋
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