トップページ ≫ 社会 ≫ 苦楽の相撲人生が培った北の富士トーク
社会
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平幕力士の活躍で盛り上がった大相撲初場所は最後の最後まで楽しめ、NHKの実況中継はほぼ毎日見ていた。放送で欠かせないのが専門家として取り口説明をする解説者で、その最長老の北の富士勝昭さんの語りが面白い。第52代横綱で元・九重親方の彼は1942年生まれの喜寿だ。
話のテンポがよく、歯切れもよい。幕内優勝10回、親方としても千代の富士(故人)と北勝海(現・日本相撲協会理事長)の2横綱を育てた実績があり、先輩そしてすぐ後の横綱たちもほとんど亡くなってしまい、誰にも気兼ねすることなく言いたい放題だ。才能に恵まれ、トントン拍子に相撲界を生きてきたようなイメージがあるが、自伝や対談本によれば苦難も多かったという。
郷土北海道のヒーロー、第41代横綱千代の山を慕って中学3年の暮れに出羽海部屋に入門したものの、直後の新弟子検査で規定体重71キロに7キロも足りず不合格。当時認められていた自費養成力士というモグリ資格で初土俵。次の春場所の検査では水道水をガブ飲みしてやっと合格。でも、思うような成績を残せず、千代の山の付け人から行司の付け人に降格された。
1960年に四股名を北の冨(後に富に変更)士に変えたのを機に連続して勝ち越すようになり、初土俵から35場所目の1963年春場所に十両入りした。十両でも全勝優勝を決め、翌年初場所に新入幕。それまでのノロノロ運転が急にスピードアップ、1966年には大関に昇進した。
ここで相撲人生最大の難問にぶち当たる。恩ある九重親方(元・千代の山)が出羽海部屋の跡目を継ぐ可能性がなくなり、独立しようとしたのだ。「分家独立は許さぬ」という一門の掟を破ることになり、親方と軌を一にすれば、廃業という最悪事態も想定された。人にも相談したが、最後は自分で決めて、親方について行くことにした。
最終的には独立は認められたが、一門からは破門された。親方と弟子10人で、高砂一門の九重部屋として出発した。独立後、最初の1967年春場所ほど気合が入ったことはなかったという。大鵬に負けただけの14勝1敗で初優勝、行動を共にした松前山も十両優勝で花を添えた。
ところが、後がいけない。ご祝儀もたっぷり入り、眠っていた遊び心が動き出したのだ。次の夏場所から2場所続けて負け越した。こんな調子で3年が過ぎ、柏戸が引退、大鵬も力を落とし、代わりにライバルたちが台頭してきたのが刺激になった。1970年初場所で相星の玉乃島を優勝決定戦で制し、2人同時に横綱昇進となった。
この時の横綱審議委員会でも、レコードを吹き込んだり夜の銀座で豪遊したりと、「国技大相撲の横綱」のイメージと違うと指摘されたようだ。「現代っ子横綱」と呼ばれ、「夜の帝王」の異名までついた。
横綱昇進して間もない時期に私もナイトクラブのような店で彼に遭遇した。トイレに向かう途中、席を立った横綱と軽くぶつかった。すると私より先に「あ、すみません」と頭を下げた。相撲同様、素早い反応で、尊大さは全然ない態度だった。同じ頃、親しい週刊誌記者が、横綱と銀座の高級クラブで働く女性との交際を追っていた。彼がその件で横綱を直撃すると、素直に認めたという。ほかにも同種のネタを取材していた記者は横綱の潔さに感心していた。
そんな人柄もあって、過去にちょっと脱線しても大事には至らなかったようだ。今や相撲界の生き字引的存在として、豊富なうんちくを傾け続けて欲しい。
山田 洋
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