トップページ ≫ 社会 ≫ しぶとく芸能界を生き抜いてきた2人
社会
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東京新聞の夕刊に芸能人やスポーツマンの自伝『この道』という欄があり、先日まで俳優で歌手の黒沢年雄が連載していた。途中から読み始めたが、起伏に富んだ人生を取り繕うことなく綴っていて、ほとんど未知だった彼に親近感を持った。1992年に『大莫迦になりたい!』、2010年に『二流芸能人が、何度がんになっても笑って生きている理由』と、2度も自虐的タイトルの自伝を刊行していることもあって、読者を引きつけるコツを心得ているようだ。
1944年に横浜で生まれたが、16歳で母と死別、父は薄給で、4人兄弟の長男である彼は高校を中退し、さまざまな職に就く。東宝の新人オーディションでは破天荒な対応が奏効し、男子で唯一の合格者になった。
私には俳優としてよりも大ヒット曲『時には娼婦のように』の歌手という記憶のほうが強い。友人がカラオケで毎回リクエストしていたからだが、この歌にまつわるエピソードが愉快だ。黒沢と会った作詞家なかにし礼が、別れ際のイメージをもとに作曲まで手掛け、アッという間に仕上げた曲だった。しかし、「こんな歌、嫌だ」と断ったという。
彼にはダーティーとかプレーボーイとかいうイメージがつきまといがちで、本人はそれを払拭しようと懸命だったのだ。たとえば、石坂浩二あたりと共演するとコンプレックスを感じたため、本を読み、知的な部分を補おうとしていた。よりによってすごい歌詞の曲など歌えないというわけだ。
日本コロムビアの担当ディレクターや周囲の関係者からも強く奨められ、「売れそうなら」と渋々引き受けた。もともと気が乗らなかったので投げやりに淡々と吹き込んだ。それがこの曲にマッチし、1978年2月に発売されると、たちまちミリオンセラーになった。本人も「分からないものだ」と述懐している。
黒沢の自伝のこの部分とよく似たケースを思い出した。歌手の美川憲一だ。妻子ある男性との間に彼を産んだ母は結核を患い、2歳の彼を姉夫婦に託す。養父が亡くなり、養母と実母を助けようと、高校を中退し、芸能界をめざす。大映ニューフェースに合格するものの、途中で歌手のほうに進路転換、青春路線でデビューする。
1966年、3曲目の『柳ヶ瀬ブルース』が大ヒットする。当時、テレビで彼を見た私には、端正な顔立ちながら、直立不動で感情を抑えた歌い方が印象的だった。本人は、「暗くて演歌っぽい」この曲を嫌々レコーディングしたそうだ。だが、担当ディレクターは「いいねえ、若いのに冷めてて。そのイメージで行こう」と支持したという。
ヒット曲誕生事情だけでなく、黒沢と美川には共通点が多い。ともに70代半ばで、浮き沈みの激しい世界で天国と地獄を体験してきた。黒沢は映画界が不振になるとテレビドラマに進出、そちらの仕事も減るとバラエティに活路を見出した。その間に何度もがんの手術をした。
美川もヒット曲を立て続けに出した後、長い低迷期に陥る。1984年には大麻取締法違反で取り調べを受ける。そこからはキャバレーでのショー出演に注力したら、ものまねのコロッケと知り合い、人気復活の糸口となった。彼のキャラクターを際立たせているオネエ言葉も、キャバレーでうるさい客がいたので「おだまり!」と言ったら大ウケしたのがきっかけだ。
転んでもただで起きない2人に学ぶところは多い。
山田 洋
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