トップページ ≫ 社会 ≫ 出前授業で学ぶ日米開戦に至るまでの道
社会
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79年前の1941年12月8日に日本の海軍がハワイ・オアフ島の真珠湾にある米国海軍の基地を奇襲し、戦艦5隻と駆逐艦2隻を沈め、航空機188機を破壊した。その1時間前には英国領マレーのコタバルに日本陸軍が上陸した。こうして始まった太平洋戦争は、緒戦での日本軍の進撃こそ華々しかったが、1942年6月のミッドウェー海戦で大敗した後は攻勢から守勢に転じ、最悪の結果に至る。
なぜ日本は無謀な戦争に突入したのか理解に苦しむところは多い。これについては様々な見解があるが、多岐にわたる資料を駆使して、とても分かりやすく興味深く解き起こした本として『それでも日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社 2009年刊 小林秀雄賞受賞)と『戦争まで――歴史を決めた交渉と日本の失敗』(朝日出版社 2016年刊)があると聞き、早速取り寄せた。
著者は東京大学教授で日本近代史が専門の加藤陽子さん。日本学術会議の新会員候補とされたのに菅義偉首相がなぜか任命拒否した6人の中の1人だが、ある保守系の大物国会議員も『それでも日本人は…』を愛読書に挙げている。埼玉県の大宮出身という親近感もあり、新聞に載るこの人の文章は私もよく読んでいるが、著書を読むのは初めてだ。2冊とも中・高校生20人前後を相手の出前授業をもとにしたもの。途中で生徒への質問が出され、加藤教授も予期せぬような回答も飛び出すが、それに対し、ていねいな説明を加えていく。
開戦時に日米の国力差は歴然としていた。国民総生産と粗鋼生産量は12倍、石油資源は777倍だったが、この差を日本政府は国民に隠そうとはしなかったという。むしろ、劇的な差を克服するのが大和魂なのだとして、精神力を強調していた。長期化していた日中戦争に対するのとは違う感慨が人々の間に広がっていったことも確かだ。強い英米を相手にすることによる高揚感があり、緒戦の戦果に心を奪われたのか。
昭和天皇は開戦に慎重だった。軍としては天皇を説得しなければならなかった。1941年9月の御前会議では、「時の経過とともに米国の軍事的地位は優位となり、日本の石油備蓄量は減っていく。開戦を延ばすのは歴史が教えるように不利になるだけだ」として、軍部は何と豊臣と徳川の大坂冬の陣の話を持ち出す。冬の陣の後の和平交渉で家康は、平和になったのだから豊臣方の大坂城の堀は必要ないとして埋めさせ、翌年夏に再戦し、豊臣勢を滅ぼした史実だ。開戦の決意をせずに豊臣方のように崩壊するより、可能性の高い緒戦の大勝利に賭けるほうがよいとの意見だ。日米交渉は続いていたが、この説得には天皇もぐらりとしたようだ。
真珠湾の奇襲攻撃については11月に天皇の承認を得た。この時も海軍は戦国時代の話を持ち出す。織田信長の軍勢が10倍の人数の今川義元の本陣を急襲して勝利した戦いだ。この桶狭間の戦にも比すべき奇襲でこちらに十分な勝算がありと説明した。このような史実を用いた講談調の説得が天皇には効果的と見た軍の作戦だったのかもしれない。
しかし、短期決戦のつもりがズルズル長引き、悲惨な経過をたどった。加藤教授は特定の政治家や軍人を悪者に仕立てることなく、当事者たちの意見を収録していて、一般的な評価が芳しくなかった人物の意外な側面も紹介しているのが新鮮だった。
山田 洋
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