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元禄15(1702)年12月15日(新暦では翌年1月31日)の未明、お家断絶の赤穂藩の浪士47人が江戸・本所の吉良邸に討ち入り、亡き主君の仇討ちをした話は、『仮名手本忠臣蔵』として浄瑠璃や歌舞伎で演じられ、18世紀から圧倒的な人気を保持してきた。明治末年には“日本映画の父”牧野省三が初めて映画化し、大正から昭和にかけては映画各社が競って忠臣蔵映画を製作、ほとんどがヒットした。この辺の事情は映画評論家の小松宰・著『忠臣蔵と日本人』(2015年 森話社刊)に詳述されている。
1932(昭和7)年には初のトーキーによる超大作『忠臣蔵』が松竹で製作された。当初はかなり野心的なシナリオだったが、会社からの講談調、浪曲調でとの要望を受け入れた。興行的にはそれで大成功した。
1941年の太平洋戦争突入の直前・直後に公開された松竹『元禄忠臣蔵』前篇と後篇は、後に『雨月物語』等で世界的な評価を得る溝口健二監督の作品だが、討ち入りのシーンがすっぽり抜け落ちている。女性の悲哀を描くことに心血を注いできた彼は殺戮シーンが前面に出るのを避けたかったようだ。江戸城松の廊下を原寸大に再現するなど巨費を投じ、前・後篇で4時間近い大作で、文部大臣特別賞を受賞したものの、製作費はほとんど回収できなかった。
戦後はGHQによって仇討ちや復讐劇は禁止されたが、解禁されるとまた続々と作られる。早稲田大学客員教授の社会学者、谷川建司・著『戦後「忠臣蔵」映画の全貌』(2013年 集英社クリエイティブ刊)によれば、特定の浪士を描いたものや外伝ではない本格的な作品は1952年春に公開の東映『赤穂城』『續赤穂城』だそうだが、続編でも赤穂城の明け渡しまでしか描いていない。この作品からは、殿のご乱心(軍部の独走)によってお家取り潰し(無条件降服)となるが、何とかお家の再興(独立国としての国際社会への復帰)に向けて頑張るしかないというメッセージを読み取れる。大石内蔵助のせりふにも「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び」という終戦の玉音放送そっくりのものがある。前年に発足した新興の東映はこれに続く『女間者秘聞 赤穂浪士』との3部作で配給収入を伸ばし、その勢いで4年後にはトップに躍り出た。
1954年10月には、戦後初めてタイトルに「忠臣蔵」の入った松竹『忠臣蔵(花の巻・雪の巻)』が公開された。『忠臣蔵と日本人』の著者は、この作品が戦後初のオールスターキャストによる超大作でもあり、その後の忠臣蔵映画の雛形となったとしている。以後1962年まで邦画各社は超大作の忠臣蔵映画を作り続け、ことごとくが大ヒットした。それとは別に、堀部安兵衛など個別の主人公を中心としたものや外伝もの、後日談などはそれ以上の数で作られた。
1962年11月公開の東宝『忠臣蔵(花の巻・雪の巻)』の後は超大作ものは長い空白期を迎える。それに代わったのがテレビだ。1964年のNHK大河ドラマ『赤穂浪士』は映画、歌舞伎、新劇の看板スターを動員し、常時30%という記録的な視聴率を獲得し、映画からテレビの時代になるのを実感させた。
超大作の忠臣蔵映画が復活するのは1978年10月、深作欣二監督の東映『赤穂城断絶』だ。この年に同監督の大型時代劇『柳生一族の陰謀』がヒットしたことで東映が気をよくしたからだという。深作監督は脱落藩士に焦点を当てたアンチ忠臣蔵にしたかったが、内蔵助役の萬屋錦之助が反対し、折衷的なストーリーになった。
その16年後、深作監督は松竹の創業100年記念作品として製作された『忠臣蔵外伝 四谷怪談』に取り組む。忠臣蔵の話の中に四谷怪談を落とし込み、『赤穂城断絶』のリベンジを意図していたようだ。この作品と同じ日に東宝からは市川崑監督の『四十七人の刺客』が公開された。新解釈忠臣蔵というキャッチフレーズで、高倉健の内蔵助と中井貴一の上杉藩江戸家老との謀略戦が柱となっている。
一口に忠臣蔵映画といっても、さまざまな描き方がされてきた。今後も面白い切り口の作品が誕生することを待ちたい。
山田 洋
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