トップページ ≫ 社会 ≫ 賞名より知られていない直木三十五とは?
社会
特に埼玉県、さいたま市の政治、経済などはじめ社会全般の出来事を迅速かつ分かりやすく提供。
1月20日に第164回芥川賞・直木賞の選考結果が発表された。芥川賞は純文学の短・中編小説が対象の新人賞。直木賞は大衆小説、エンタメ小説が対象で、受賞者はある程度実績のある中堅以上の作家が多い。今回も芥川賞は21歳の大学生、宇佐美りんさん、直木賞は56歳の西條奈加さんで複数の文学賞の受賞歴を持つ。
文藝春秋社の創立者で作家の菊池寛が、縁の深かった芥川龍之介と直木三十五の名を冠して創設し、1935(昭和10)年から年2回実施されてきた(戦後の混乱期は中断)。芥川については多くの人が知っているが、直木のほうは人物像も作品も今ではほとんどが知られていない。
彼の代表作は薩摩藩のお家騒動を描いた『南国太平記』だ。菊判(A5判より少し大きい)の本で600ページ近くもある長さに圧倒されるが、文も会話も短めでテンポがよく、意外に読みやすい。発表当時、批評家から時代考証等で厳しい指摘があったものの、この人の作品の魅力は奔放なロマンにあり、史実にとらわれると波乱万丈の物語の展開ができなくなるとの擁護論もあった。
直木三十五(本名・植村宗一)という人自体の面白さも桁外れだ。1891(明治24)年、大阪生まれ。早稲田大学英文科に入学するが、後に妻となる女性との同棲生活のために仕送りを使い込み、授業料未納で卒業できなかった。でも、授業には出席し、卒業写真にも顔を出した。仕送りしていた親を安心させるためだった。定職を持たず、長女が誕生し、貧乏は極点に達し、妻が讀賣新聞の記者になって生活費を稼いだ。
1918年には大学の級友たちと出版社を始める。1銭も出資していなかったのに取締役となり、高給を得る。『トルストイ全集』など外国著名作家の邦訳出版が成功したからだ。ここで浪費癖が出てきて、芸者遊びも始まる。
出版社経営も次第に行き詰まる。大学時代から彼に惚れ込み、共同経営者になった鷲尾浩(雨工)とも袂を分かつ。資産家の息子で遊蕩児だった鷲尾は莫大な借金を背負って郷里の新潟に帰った。
直木は作家になってからも、浪費や女性たちに貢ぐことで借金に追われていた。家に何人もの借金取りが押しかけても悠然と寝ていた。長い間の貧乏暮らしで鍛えられ、金がないことをあまり苦しいと感じなかったようだ。借金取りの中には彼の対応を愉快に感じていた人がいたと、学生時代からの仲間だった作家・廣津和郎が証言している。
1934年に脊椎カリエスがもとで43歳で病死する。直後の雑誌は追悼特集を組んだが、『中央公論』に載った鷲尾雨工の文章は異様だった。彼は直木と始めた出版業に失敗して帰郷した後、再上京して商売を始めた。それがうまく行かず、売れっ子作家になっていた直木を訪ね、金の無心をした。すると冷たくあしらわれ、わずかな額しか渡されなかった。その恨みをぶつけた文章だった。
鷲尾は『南国太平記』を読み、自分にも書けるとの対抗意識から長編の『吉野朝太平記』を書き上げた。この作品が何と1935年下期の第2回直木賞を受賞する。直木三十五には冷たくされたが、直木賞は彼には温かだったのだ。
山田 洋
バックナンバー
新着ニュース
- エルメスの跡地はグッチ(2024年11月20日)
- 第31回さいたま太鼓エキスパート2024(2024年11月03日)
- 秋刀魚苦いかしょっぱいか(2024年11月08日)
- 突然の閉店に驚きの声 スイートバジル(2024年11月19日)
- すぐに遂落した玉木さんの質(2024年11月14日)
特別企画PR