トップページ ≫ 社会 ≫ さいたま市誕生から20年 3市合併渦中の人の遺言
社会
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昨年末に亡くなった旧大宮市長の新藤享弘氏(享年88歳)を追悼する「お別れの会」が先日、大宮駅西口のパレスホテルで開かれた。大きな部屋を2つ使った会場に500人が出席した。
出身高校同窓会の地域支部で、市長を辞めた新藤氏と接する機会が何回もあった。そういう場では政治の話は封印し、話題を選んで穏やかな口調で話していた。だから6年前に著書『さいたま市誕生 知られざる真実』(知玄舎刊)が刊行された時には驚いた。出版祝賀会の来賓挨拶の中で、何人かが冗談交じりに「暴露本」という言葉を使っていた。原稿を預かった出版社が、そのリアルな内容に困惑し、別の出版社から刊行されたことも聞いていた。
追悼会でも会場にこの本が多数置かれ、希望者に贈呈されていた。6年前はざっと目を通しただけだったので、この際に新藤氏の遺言とも言える著書を熟読することにした。
前書きにも、「自叙伝でも自らの顕彰碑でもなく、状況に翻弄されて思い悩むハムレットのような市長像」とあるように、さいたま市誕生時のドロドロした地方政治の中で苦悶する人間味あふれる内容だ。登場人物を匿名でなく実名にしたことで話に真実味が増したのも確かだ。
市の助役だった新藤氏が1990年の大宮市長選に立候補した際の第一公約は政令指定都市構想の推進だった。この構想は埼玉県が進めていた「YOU And I プラン」に沿ったものだ。与野Y・大宮O・浦和U・上尾A・伊奈I、4市1町の頭文字を取って名付けられた埼玉県中枢都市圏構想だ。すでに旧国鉄の大宮操車場の廃止が決まっていた。跡地のほとんどが与野と大宮に帰属し、浦和も少々入っていて、大規模開発を統一的に行うには3市が一緒にやったほうがよいという考えが広がった。ここに国の行政機関の一部を移転するという話が加わり、少なくとも3市が合併することが急務となった。
しかし、大宮と浦和の主導権争いは根深かった。上尾市と伊奈町を含めた4市1町の合併では地理的に大宮が中心となり、首長ポストや新市庁舎の位置でも不利になると、浦和の側は考えたようだ。
大宮市議会は4市1町論が主流だったが、市長となった新藤氏はその考えに賛同しつつも、県から3市合併、政令都市化を迫られ、気持ちは激しく揺れ動く。上尾市長の真意が分かりにくかったのも事情を複雑化させた。
膠着状態に変化が見られたのは、1999年から翌年にかけて大宮市議会の4市1町論強硬派が分裂してからだ。浦和、大宮双方の妥協もあって3市合併の方向が決定づけられた。2001年に「さいたま市」が誕生し、新市長の選挙が行われる。
新藤氏は旧3市の対立を避けるため、現職市長の出馬には否定的で、新しい候補者の擁立を模索していた。与野の井原勇市長も不出馬を表明していた。浦和の相川宗一市長の考えは確認できなかったが、義弟による重大犯罪が報じられていたので出馬はあるまいと思っていたという。
それは甘い判断だったようで、相川氏が出馬の準備を着々と進めていたことを知る。対抗上、新藤氏も出馬を余儀なくされた。この選挙には大宮市議会の反新藤派が相川支持に回るなど不可解な動きがいくつかあり、新藤氏は敗北した。
この選挙後、政治の第一線から身を引いた新藤氏だったが、さいたま市誕生から新市の市長選まで、積もりに積もった思いを吐露しなければ気がすまなかったのだろう。
今年の1月に相川氏も亡くなった。2月には新市庁舎をさいたま新都心バスターミナル(大宮区北袋町)に移転することが発表された。これは2000年9月の合併協定書に明記されたことだった。新市庁舎の完成が予定される10年後、さいたま市はどう変わっているのだろうか。
山田 洋
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