社会
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飲食店の利用が制限されている今、小説やエッセイを読んで酒場のシーンが出てくるたび、仲間たちと大騒ぎしていた頃が懐かしくなる。その中でも新宿ゴールデン街についての記述をよく目にする。新宿区役所の近くに200軒以上の木造3階建の店が密集する街だ。
毎日新聞の日曜版に山田詠美さんが自伝を連載しているが、作家デビュー直後に田中小実昌さんと築地の料亭で対談した後、ゴールデン街に連れて行ってもらった話を嬉しそうに書いていた。ツルツル頭に手編みの毛糸帽子がトレードマークのコミさんこと田中さんは直木賞作家だが、飄々として親しみを感じさせる人だった。戦後に東大の哲学科に入ったものの、授業にはほとんど出ず、ストリップ劇場で働いていた。私も週刊誌編集部員だった時に、ストリッパーについて電話取材したところ、次々に彼女たちの名前を出し、それぞれのエピソードを話してくれた。
山田詠美さんを連れて行ったのは「まえだ」という店だった。狭い店内にテレビや新聞で見知った顔がいくつもあってびっくりしたという。ここの前田孝子さんはゴールデン街で有名なママで、怖いことでも知られていた。コミさんの頭をピシャリと叩くこともあったという。私は仲間とこの店に何回か行ったが、いつもハシゴ酒の最後にだった。睡魔に襲われ、カウンターに突っ伏して居眠りしてしまったことがある。すると、「起きろ!起きろ!」と大声が聞こえて目を覚ました。酒もろくに注文せずに眠られたら、店主として怒るのは当然だろう。この時以降、ゴールデン街から足が遠ざかった。
再びこの街に縁ができたのは2年半前、やはりここの伝説的なママ、佐々木美智子さんの「ひしょう」で友人が開催した催しに参加したからだ。北海道根室市出身の佐々木さんが1956年に22歳で上京し、新宿でおでんの屋台を引いた後、日活撮影所に3年間勤め、写真専門学校で報道写真を学ぶうちに学生運動や成田闘争に関わり始める。そしてゴールデン街にたった3坪、家賃は3万円ほどのバー「むささび」を開店し、日大闘争をはじめ学生運動の人たちの溜まり場になっていった。開店準備で金づちを使っていたら、真裏の店のママが「振動でグラスが割れた」と怒鳴り込んできた。この人こそ、前出の「まえだ」のママだった。そこの常連のコミさんも、ママの目を盗んでは「むささび」に来てくれたという。
1971年に「むささび」の役割は終わったと思って閉店し、写真学校時代の女友だちと太平洋戦争の戦地だったパラオの遺骨収集団に加わった。そこで新宿にいくつも店を持っているインテリやくざと知り合い、帰国後に経営プランを提出すると、格安の権利金で歌舞伎町の55坪の店「ゴールデンゲート」を貸してくれた。家賃は60万円だが、「何とかなる」との思いだったという。学生運動をやっていた人ばかりか、役者や歌手など有名人が来て店は賑わった。日本赤軍のリンチで殺された人やパレスチナゲリラと共闘しようと現地に飛び立った人もいた。
当然、警察にマークされ、店に盗聴器を付けられ、警視庁に呼び出された。撮ったフィルムの提出や店の客名呈示を要求されたが、すべて拒否した。これに腹が立って店を閉めることを決意。またゴールデン街で3坪の「黄金時代」という店を始めた。酒を安く売るのをやめ、自分の生活費も切りつめ、3年間で600万円を作った。その金でブラジルに渡り、アマゾンで飲食店やペンションなどを経営した。日本からいろいろな人が来たが、コミさんも歌手の新谷のり子さんや俳優の山谷初男さんらと共にやってきた。
こんな面白い人たちがゴールデン街に出入りしていたのだ。佐々木さんは2013年に日本に戻り、翌年に「ひしょう」を受け継いだ。私はこの店で開かれた催しに行った際、いつもは客を入れない3階を見て、何か妖しい名残を感じた。かつてゴールデン街は青線と呼ばれた非公認の売春地帯で、同じ造りの店の3階がそれ用の部屋だった。それを知って、また3階を見せてもらいたくなった。
ところがコロナ禍で、昨年7月に店を畳んだことが新聞に佐々木さんの写真入りで報じられた。がっかりするとともに、ゴールデン街から遠ざかってしまっていたことを悔やんだ。
山田洋
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