社会
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毎日新聞の「母校をたずねる」欄では埼玉県立浦和第一女子高校を取り上げ、トップバッターはノンフィクション作家でテレビの情報番組のコメンテーターなど幅広い活動をしている吉永みち子さん(1967年度卒)。この人が同校卒業とは知らなかった。東京外国語大学を出て女性初の競馬紙記者になったことのほうが注目され、出身高校が報じられることが少なかったからだ。おまけに同じインドネシア語科で彼女の12年先輩の人がやはり競馬記者をしていて、週刊誌で私とは仕事仲間だった。
この水谷さんという人は個性派ぞろいの契約記者の中でも風変わりさは格別だった。酒と競馬に生きているような人で、ちょっと崩れた風貌はバクチ打ち独得のものかと思われた。外語大卒という話は半信半疑だったが、宴会でインドネシア民謡を見事に披露し、みんなを納得させた。
吉永さんが1985年に大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した『気がつけば騎手の女房』の中にも水谷さんは登場する。彼女が競馬新聞を辞めたとの噂を聞きつけ、電話してきて、近く講談社が発行する夕刊紙の仕事を持ってきたのだ。さっそくその「日刊ゲンダイ」の生活ニュース部門のデスクに会わせてくれた。一見苦手なタイプのデスクの面接をパスし、「日刊ゲンダイ」の競馬記者となった。吉永さんは面倒見のよい先輩を敬意と親しみをこめて描いている。
確かに水谷さんは人懐こい人だった。週刊誌編集部から異動した私が、会社のトイレで彼を見かけて隣に立つと、懐かしそうに私の肩をたたく。でも、その手は今、小用のために使っていた手だ。年上の彼の満面の笑みを見たら、よけるわけにはいかず困惑したものだ。
初めて馬券を買ったのも彼を通してだった。いつも外れたのは大穴狙いだったからか。「馬券を買っていないんじゃないか」と言う人もいた。金回りがよくなさそうな彼の事情を知っての意見だったようだ。こんなこともあって私は競馬にハマることはなかった。
それから数年後、水谷さんが亡くなったことを知らされた。それも行き倒れで、服の中のメモ用紙に吉永さんの名があったので警察が問い合わせたそうだ。死因は栄養失調というから、酒ばかりでろくに食事をしていなかったのか。同郷で親しい編集者がアパートを訪れると、多数のネコが主なき部屋を出入りしていたそうだ。
ともに母親一人に育てられ、よく似た経歴を歩んだ二人だが、吉永さんみたいな強い生命力が水谷さんにもあったらと悔やまれてならない。
山田 洋
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