社会
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図書館で見つけた『埼玉 奇才列伝――自分流の生き方に徹し 輝いた10人』(佐々木明・著 さきたま出版会 2018年刊)という本の目次を見ていたら、私の記憶の中に強い印象を残してくれた人が取り上げられていた。独自の作風で知られる童話作家で社会活動家でもあった太田博也氏(1917~2004)だ。この本の著者は朝日新聞社会部記者だった人で、1981年から3年余り浦和支局に勤務していた。81年9月に久喜市の太田邸を訪ね、以後3,4回会ったという。
私が会ったのはその数年前だった。出版社で児童書出版部に異動したばかりで、大企画の『少年少女日本文学全集』の編集チームに助っ人として加わっていた。この全集の中に太田作品が収録され、その挨拶とご本人の写真撮影のため、カメラマン同行で久喜市に出向いた。実は私の実家が隣の菖蒲町(現・久喜市)にあったので、この役が回ってきたようだ。指定された場所は太田氏が支配人を務める結婚式場だった。蝶ネクタイで支配人然とした身なりで、童話作家らしくないのが面白かった。結婚式場は地元農協が経営とのことで、太田氏が口にした農協関係者の中に私の縁者の名前もあった。
写真撮影が終わるとカメラマンを帰し、私は誘われるままに太田氏の家に伺った。東京で学校教師をしている奥さんはまだ帰宅していなくて、二人きりでお酒を飲み始めた。太田氏の話は次第に熱がこもってきた。東京の恵まれた家庭に育ちながらも、身分や富によって人間が不当な差別を受けてきたことに強く反発していた。私も同調し、すっかり酩酊してしまい、その日は東京に戻らず、両親と弟が住む実家に転がり込んだ。
太田氏は16歳で書いた社会風刺を盛り込んだ作品が、童話界の重鎮の小川未明から高い評価を受けた。キリスト教に基づく社会運動家の賀川豊彦からも激励と影響を受けた。戦時色が強くなると、作品に反戦思想があると当局に決めつけられ、執筆を禁じられた。それまで創作活動の拠点にしていたのは菖蒲町の別荘だった。
『ポリコの町』などの作品に登場する地名や人名は片仮名が使われ、宮沢賢治作品と同じく無国籍童話と呼ばれた。子どもばかりでなく、大人を含めた読者を対象にし、人生に対する示唆に富む作品が多い。
1955年に刊行された名作『風ぐるま』以後は創作を減らし、社会活動に力を入れ始めた。冤罪死刑囚とその家族の支援活動だ。印税など私財を活動に投入し、自ら全国の刑務所を訪ねた。2004年に肺炎で亡くなった時には、全国から元死刑囚の家族が幸手キリスト教会の葬儀に駆けつけた。
太田夫妻には子どもがいなくて、前述の佐々木氏の著書によれば、久喜市の自宅は空き家になっているという。それを知って私は大事なことを思い出した。太田氏から過去の写真を何枚も預かっていたのだ。返しに行こうと思っていたのだが、先延ばしにしてしまった。太田氏の偉大な功績を知って喜んでいた私は、いっぺんに落ち込んだ。
山田洋
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